十三番目の女神
沖島 芙未子
序章「饗応の杯」
月の美しい夜であった。王女はその夜、寝台に入っていくら時間が経ってもどうしてか一向に寝付けずにいた。だんだんと夜も深まり、満月がだいぶん西に傾いた頃になって、彼女はついに諦めて手元の燭台に灯りを入れた。当然ながら、女官たちは既に深い眠りについており、辺りは静まり返っている。
不意に
「これはこれは。王女殿自らお出迎えいただけるとは、恐縮至極に存じます」
無精髭を生やした四十がらみの兵士は、そう大仰に驚いてみせた。いやに芝居がかった仕草に見えた。それに、今夜の見張りの衛士はこんな顔だったろうか。王女は表向きは歓待の笑顔を作りながら、まだ覚えきれていないこのヘラス王宮の衛士の顔を必死で思い返していた。兵士は王女が口を開かないことは気にしていないふうで、目線だけで盆の上の杯を示した。盆を持っていないもう片方の手は、まだ後ろに回したままだ。
「いや、陛下から内密にと仰せつかっているのですが、王女殿がもしまだ起きているようなら、良い酒があるから付き合わないか、とのことでして。何しろお忍びでとのことですから、陛下は後からいらっしゃいますよ」
兵士はそう説明すると、大変恐れ入るが入室をお許しいただいても? と言いたげに眉を下げた。
「そうですか……」
微笑を崩さないまま、素早く盆の上を見遣る。二つの角杯には、おそらく王家以外が所有することは難しいだろうと思われるほど贅を尽くした彫刻が施されており、それは闇夜のなかにあっても僅かな月明りを反射してひときわ輝いていた。
目の前の兵士は、彼女がこの王子直々の饗応を受けることを少しも疑っていないような邪気の無い表情で王女を見つめ、大人しく返事を待っている。王女もしばらく兵士を見つめ返していたが、結局、困り笑いで兵士の前に柔らかく両の掌を見せた。
「ええと、少々お待ちになっていただければ。陛下からのお誘いでしたら、やはり、きちんと支度を整えてからわたしがそちらに出向くべきですから」
そう言って王女が踵を返し、入口の仕切り幕を下ろしかけたところで、兵士の顔色が急に変わった。黒い盆と金の杯が彼の手を離れ、重い音を立てて床に叩きつけられる。代わりに後ろ手に持っていた銀の短剣が、王女の心臓目掛けて高く振り上げられるのを見た。それと前後して、兵士の背後からまた別の人間らしき鋭い声が王女の耳に届く。
「逃げろ」
その声で王女ははっと我に返り、咄嗟に南側の出口に向かって駆け出した。逃げる――何処へ? 考えている暇は無かった。この日、東の国の王女は、寝所である北西の棟から夜の闇に紛れて王宮の外へと逃れたのだった。
*
王宮の北西側、客人を迎え入れるための特別棟にほど近い回廊に、灯りを手にした二人の衛士の姿が見える。そのうちの一人であるリゲルは、煉瓦色の頭の後ろのほうを掻いて盛大に欠伸を漏らした。
「あーあ。いくら見張りの頭数が足りないからって、これで二日連続の深夜巡回番か。戦や遠征が無くたって、楽な仕事じゃあないよなぁ……」
「俺なんて、このあと仮眠を摂ったらすぐに次の勤務だぜ」
夜勤の相棒と軽く愚痴を言い合い、廊下の突き当りで西の中庭と東側の回廊へと二手に分かれる。
「じゃ、俺は東門の方までぐるっと見てくるよ」
「おう。お疲れさん」
リゲルは片手を上げて西側の警備へと向かう。西の中庭を横切り、北西棟に入ったところで、奥の部屋から何やら話し声が漏れ聞こえてくることに気付いた。一人は壮年と思われる男性の声、もう一人は女性の声のようだ。リゲルは話し声が聞こえる部屋の近くへと何気なく足を向けてみる。すると、国王の婚約者である賓客の部屋の前で、一人の兵士がこちらに背を向けて話し込んでいるのを見つけた。こんな夜更けに王女の私室を訪うというだけでも相当に怪しいが、更に驚くべきことに、それに応対しているのは下働きの女官ではなく、婚約者であるハルス王女その人だった。
衛士の嗅覚でどうも不審に思ったリゲルは、足音を立てぬように男の背後に近寄ってみた。だが、確かめるまでもなく、彼はその途中で更に疑わしいものを見つけてしまった。その兵士の腰の辺りで、薄明りに反射して何かが一瞬光ったのだ。それは彼が後ろ手に隠し持っていた短剣の刀身の輝きであった。兵士は――否、兵士に扮した不届き者は、今にもその短剣を王女に向けて振り上げるところだった。
「――逃げろ!」
自分と兵士、兵士と王女の位置関係から、助けるのは間に合わないだろうと踏んだリゲルは、考える間もなくハルス王女に向かって鋭く叫んだ。表情を凍りつかせて短剣の切先を追っていた王女が、リゲルの声にはっと反応し、部屋の南側の裏出口の方へと一目散に走り出したのが見えた。
声でリゲルの存在に気付いたらしい男は、ハルス王女が逃げていった方に目を遣ってひとつ舌打ちすると、獲物を取り逃した事への八つ当たりのように、躊躇いなくリゲルに向かって短剣を振り下ろした。リゲルもすかさず警備用の剣で応戦する。組み合ってすぐに、この男はやはり訓練を受けた兵士ではなく、見た目だけ似せた素人だと分かった。
「言え。何者だ。一体何処から入り込んだ」
リゲルは男の上に馬乗りになり、首元の襟口を片手で捻り上げて詰問した。だが、その男は変に肝が据わっているのか捨て鉢になっているのか、一切怯む素振りを見せず、逆に一瞬の隙をついてリゲルの腹を強かに蹴り上げると、彼が立ち上がれずにいるうちに手首を
「反逆者だ。我らが陛下に仇なす反逆者の一味を捕らえたぞ!」
「な……」
リゲルの脳内をいくつかの仮定が駆け巡ったが、そうしているうちに、今まで何処に隠れていたのか、いくつもの忙しない、だがいくらか統制された足音が四方からこちらに近付いてくるのを感じた。あれは奴が仲間を呼ぶ合図だったのだ。
こうなっては、リゲルがとれる行動はひとつだった。どうにか手首の縛めを跳ねのけて立ち上がり、包囲が薄い方角を見極めて敵を振り払いながら駆け出す。せめて、仲間の衛士が巡回しているであろう東側の棟までは辿り着ければ良いが。
――何だ? 何が起こっている?
妙な胸騒ぎと混迷のなかで、リゲルは勢い余って時折まろびながらも無我夢中で駆けた。結局、王宮の外に追いやられるまで、相棒の衛士と落ち合うことは叶わなかった。
*
同刻、王族の寝所である北棟の前。闇そのもののような深い漆黒の長衣を纏った背の高い人影が、広い柱廊の中央へと音も無く滑り出た。寝所から出てきて“彼”と対峙したディオクレイス王は瞠目した。“彼”が王の前にいることに驚いたわけではない。それはディオクレイスにとっては特段不可解なことではない。だが、“彼”が魔力を込めた鉾の切っ先をこちらに向けていることは、思いもしなかったことだった。ディオクレイス王は思わずたじろいで一歩ぶん後退さる。
「……何故だ。よりによっておまえがなぜ、こんなことを」
“彼”は応えなかった。夜の海の色のつめたい瞳が月明かりを反射して輝き、目前の王の瞳を射貫く。ほどなくして、彼が手にしている三つ又の鉾の先と、彼の額飾りの中心の小さな
――みなは無事か。彼女は?
そう思いを馳せる暇も無く、深い藍色の光は徐々に強くなり、夜の帳のようにディオクレイス王の視界をすっかり覆い尽くしてしまった。
あの暗殺者の援軍らしき男らに追われていつの間にか王宮の北側の棟にまで入り込んでいたリゲルは、魔術師がディオクレイス王に鉾を向けて何らかの魔術をかけ、王が大理石の床の上に眠るように倒れ込むまでの一部始終を偶然目にしてしまった。彼は回廊の柱の陰に隠れて必死で息を殺した。彼の脳は、今しがた目にした光景を処理することを拒否していた。――ディオクレイス王とあの魔術師とは、もう何年も互いを親友と呼び合うような間柄であったと聞いている。それが、何故。
魔術師の部下が、「王の身柄をどうなさいますか」と彼に尋ねた。魔術師は王を冷たく見下ろし、何の感情も無い低い声で一言部下に命令した。
「このまま北端の物見塔の牢に幽閉せよ。牢の出口には魔術で錠を施す」
部下は了解して、粛々と王を運び始める。リゲルは彼らの前に姿を現してそれを阻止したい衝動を理性で抑え込まなくてはならなかった。――いま無計画に出て行くのは分が悪すぎる。自分は完全に反逆者の汚名を着せられようとしている。このまま捕まれば、こちらの弁解などには耳も貸さずに一方的に拷問にかけられ、全く心当たりのない証言をさせられた挙句、王家に弓引く反逆者として首を刎ねられるのだろう。
それを回避するには、今は王宮の外に逃げて、体勢を立て直すほかない。王宮の外で力を得るのだ。あの国一番の魔力を持つ強力な魔術師に対抗し得る力を。
リゲルは魔術師とその部下が立ち去るのを見届けると、足音を立てぬようにその場を辞し、夜の闇に身を隠して王宮の外へと逃走を始めた。魔術師は北端の塔へと向かう前に、ふと思い出したようにその場で立ち止まって振り返り、茂みの向こうへと消える若い男の姿を海の色の鋭い瞳で一瞥した。
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