02 俺のアイドル
俺がそう言った瞬間、名前を呼ばれた本人がむっくりとテーブルから頭を上げた。
「なに? あたしのこと呼んだ?」
日本酒をしこたま飲んだせいで、その顔はリンゴみたいに真っ赤に染まっていた。枕代わりにしていた両腕のセーターの柄が顔に跡を残して、その美人っぷりを損なっていた。
「起きてたのか。宏樹ががんばった結果、君みたいなかわいい子と付き合えたと言っているわけ」
「なによ、人をモノみたいに」
ふくれっ面をしながら、香苗はぐびぐび日本酒を飲んだ。
「いや、モノ扱いしているわけじゃなくて。君を怒らせたかったわけではなくて。君みたいな元アイドルの美人と……」
「……くう」
弁解する俺を尻目に、香苗はまたもや眠りに入った。
「そっとしてやってくれ」
宏樹はそう言って、ビールを飲んだ。
「そっとしておくさ。そっとしておくけど、気になるな。なんで、この子はお前以上に傷ついているわけ? 青川凛の結婚に」
香苗は宏樹の恋人だ。青川凛のファン仲間で、友達付き合いしているうちに恋仲へと発展し、今にいたるというわけだ。
現在ふたりは同棲中で、結婚も視野に入れている。さっき青川凛のCDやDVDが不要になったと宏樹が言ったのは、この香苗がひとりで二枚も三枚も同じものを持っているからだ。
「結局のところ、香苗もガチ恋勢なんだよ」
宏樹は言った。自分のコートを恋人の背中にかけてやる。
「青川凛に恋しているってわけか。お前というものがありながら?」
「彼女は、憧れと恋心が接するところまで、思いを募らせてきたんだよ、あおりんに」
「結婚しないで……」
うわ言のように香苗は言った。
「よしよし。明日はファーストライブのDVDをみまくろうな」
赤ん坊をあやすように宏樹は言った。
「香苗ちゃんお気に入りのファーストライブか」
「そう。このライブで、香苗は一気に恋におちた。そして、アイドルを目指す夢を持ったんだ。ガンバリすぎが高じて、事務所や仲間とうまくやっていけず、今はこんな感じだけど」
青川凛そっくりの長い髪。下手したら青川凛より長い手足。この娘のガチ恋もいま終わろうとしている。
「もう一つ分からんことがある。結局のところ、お前は青川凛と香苗ちゃんのどっちが好きなわけ?」
こうたずねると、宏樹は目をつぶり黙り込んだ。もしかして、怒らせるような質問をしてしまったか。弁解の言葉を述べようとした瞬間、宏樹は語りはじめた。
「どっちも好きなんだ」
「どっちも」
「ああ、どっちも。でも、俺はいま過渡期にあるんだな。ガチ恋勢からただのオタクに渡るまでの。ガチ勢としての自分と、香苗にホレる一般オタクとしての自分が同居してるような感じだ。
「そんで、ガチ勢としての自分は今消えつつある。死につつある。このアイデンティティを失うのが怖かったり、楽しみだったりしている。なんか変な感じなんだ」
ふと時計に目がいく。夜十時を回っていた。
「苦悩に陥ったり、壁にぶち当たったりするのを歓迎するお前の〝ガチ恋スピリット〟もそこで終わってしまうのか?」
「それだけは残しておきたいな。香苗のために」
宏樹の香苗に向けたまなざしは柔らかかった。ガチ恋勢なる戦闘的な生き物は、ようやく優しげな表情が出せるようになった。
会計を済ませ、俺たちは店を出た。外は晴れていたが、肌が引き締まるような寒さだった。春はまだちょっと遠い。宏樹の背中で、香苗はくうくうと寝息を立てていた。
「重くない?」
香苗が聞いたら激怒しそうな質問をした。
「鍛えてるから、なんともないよ」
表情ひとつ変えることなく宏樹は言った。
「じゃあ」
俺は手を振った。
「また今度」
宏樹も手を振った。
遠ざかる背中を俺は見つめていた。美しい長い髪がかかり、かつてはオタクたちの夢を背負っていたその背中を。
白い息をはきながら、夜道を歩いた。日曜の夜だ。商店街の店舗が閉まるのは早い。人の姿もまばらなアーケード街のコンクリートの道を歩く。
途中立ち止まり、ブルートゥースイヤホンを耳に当て、スマートフォンで音楽を再生する。
ホーンセクションとドラムが奏でる陽気なリズム。
低めのセクシーな声質。のびのびとした歌声。
聞いていて元気が出る。
青川凛ほど上手とは言えないが、愛らしい歌声だ。
ガチ恋勢なんてのは、茨の道でしかないと思っていた。
やめとけと。
人生の無駄だと。
結局のところ、あいつが言うように、青川凛の心を奪うことをあいつはできなかったけれど、その過程で得られたものがあった。
それは――少なくとも俺としては――とてもすごいものだった。
願わくば、〝ガチ恋スピリット〟よ、永遠に。
宏樹が彼女を愛し続けますように。
その子は俺のアイドルだった。
俺みたいなただのオタクってのは、ガチ恋勢より始末に悪いのかもしれない。いまだに推しのこと忘れずにいるんだから。
終わり
ガチ恋勢のためのレクイエム 馬村 ありん @arinning
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