エピローグ ―余白に残る名―

ある日、ある通路の掲示板に、小さなメモが貼られていた。


色褪せた付箋紙。

筆跡は震えていたが、確かに“人の手”で書かれていた。


「名前を忘れた誰かへ

たしかにあなたと話した時間がありました。

あの午後の陽だまり、あなたが落としたペン、

何でもないやりとりが、なぜかずっと、消えません。

今はもう顔も声も思い出せないけど、

“いた”ということだけは、嘘じゃない気がします。

だからこれを、あなたのために貼っておきます。

ここに、あなたはいました。

沢渡梨絵より」


久坂直哉は、それを見て笑った。


何度も名前を消されかけた男の手に、今は社員証が戻っていた。

ICチップの裏に貼った小さなメモだけが、昔の記憶の証だった。


「人は消える。でも、“覚えていた”という事実は消せない」


彼は静かに席に戻ると、PCを立ち上げた。

今日もまた、“誰かの存在を記すためのファイル”を開く。


今日書くのは、名前を持たない誰かかもしれない。

けれどそれでも、その存在は“嘘ではない”。


通路を歩く人々の中で、

たまに足を止め、掲示板の付箋を見て立ち止まる者がいた。


そして誰かが、付箋の下にもう一枚、紙を貼った。


「私も、その人を知っていた気がします。

ありがとうございます。思い出せて、よかったです。」


そうして、名前も署名もない紙たちが、ひとつまたひとつと重なっていく。

その掲示板だけが、いまも静かに存在を証明し続けている。


物語の余白に、消された誰かの声が、

今日もかすかに響いている。

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存在の捏造 長谷川 優 @soshita

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