匿名者たちの記録

「髪が長くて、喋るときいつもペンを回してた」

「よくスニーカーを脱いで椅子にあぐらかいてた気がする」

「声は聞いたことないけど、給湯室の匂いが急に変わった朝に必ずすれ違ってた」


それらは、全て“名前のない誰か”に関する記憶だった。


梨絵のもとには日々、そんな“曖昧な誰か”の情報が集まり続けた。

すべてが断片。すべてが脆い。

だが、明らかに“記憶されていた”。


彼女はファイルをひとつ開き、タイトルにこう打ち込んだ。


【untitled_045:回収対象不明】


そして、集まった情報をもとに、“人格”を組み立て始めた。


彼女は朝、音を立てずに椅子を引く。

服装に色はないのに、いつもどこかに“黄色い何か”を身につけている。

名前は呼ばれた記憶がない。

でも、「ああ、この人だ」と“場の空気”が言っていた。


昼は必ず窓の左端に立ち、外を見ていた。

誰とも話さず、なのに誰かがいなくなると、代わりにいた。


名前を聞くことは怖かった。

名前を知らないから、まだ“存在している”気がしていたのかもしれない。


梨絵がファイルを保存すると、ネットワーク上の“記憶揺らぎリスト”に新たな通知が走った。


【揺らぎ対象ID:NML-045】

感応者数:9

初期記憶者:3名

状態:再構築進行中


名前のない誰かが、“名前未満のまま”人々の中に立ち現れていた。


存在は、固有名ではなく、“記憶の質感”から始まる──


梨絵は次々とファイルを開いた。


【untitled_046:視線が合わない誰か】


【untitled_047:席が一つ分空く原因】


【untitled_048:静電気の残響】


彼女はもはや、記録係ではなかった。

人間の“感覚から人を呼び起こす職人”だった。


「忘れられた人が“思い出されていく過程”が、

一番その人らしい形なのかもしれない」


梨絵が“書いた存在”は、読まれた瞬間に、

誰かの中で「もしかしたら」という“可能性”として息を吹き返した。

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