記憶伝播

「……それ、俺も見た気がする」


そう呟いたのは、社員食堂で梨絵のファイルを覗き込んだ経理課の高橋だった。

彼女が復元した“青山徹”のファイル──

日記と口癖、姿勢の癖、昼食の選び方──それを見た瞬間、彼は確かに“脳の奥がざわついた”という。


「確信はない。でも、“何か”あったって感覚はあるんです」


梨絵は静かに答えた。


「それで十分。“記憶”は最初、確信じゃなくて“気配”なんです」


数日後、社内掲示板に匿名の投稿が増え始めた。


「この椅子、前に使ってた人が誰か、思い出せないんですが……いつもここに座ってた気がします」

「“またここで”って言う人がいた。口癖だった。誰か知らない?」

「削除ログの一覧に、うっすら見覚えのある名前がいくつか……」


誰も“記憶を完全には持っていない”。

けれど、“思い出し始めている”。


まるで、“記憶が感染”していくように。

梨絵の言葉、梨絵の書いた文章が、他人の脳の奥に埋もれていた断片を“静かに揺らしている”。


その夜、彼女は通知を受け取る。


【記憶参照件数:128】

【再構築候補名:高橋翔太/未記録参照:青山徹】


“記録されていない名前”が、誰かの記憶を媒介にして復元候補として浮上してきた。


「これは、もう私だけの記憶じゃない。

“思い出された瞬間”、彼らは“複数人の中に存在する”ことになる」


梨絵は理解した。


「存在を奪われるとは、“誰の中にも残らない”ということ。

なら逆に、“誰か一人でも思い出してくれる限り”、人は消えない」


次に彼女は、掲示板でこう書いた。


「あなたが思い出せない人の名前、教えてください。

その“気配”を、私が文章にします」


それは、名もなき者たちに対する“記憶の代筆”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る