初稿:久坂再生

画面の中央に、カーソルがまたたいていた。


【recovery_draft_001】

タイトル:久坂直哉

サブタイトル:彼がいた風景、声、癖、そして名前


梨絵は、久坂の履歴書も、業務ファイルも参照しなかった。

彼女が使ったのは、**記録されていない“記憶”**だけだった。


──打鍵は遅く、言葉はとぎれとぎれだった。

だがその文章は、どこか“体温”を持っていた。


久坂さんは、コーヒーを飲むとき、左手でカップを持っていた。

だけどマウスは右手で持つから、朝の5分はなぜか“左利き”だった。


喋るとき、語尾が少し上がる。

それが冗談か本気か、わからないまま何度も返答を迷った。


「それって、梨絵さんはどう思う?」と、必ず“こっち側”に引き戻す言い方をした。


誰かの気持ちを引き出すのがうまい人だった。

だからこそ、上司には“煙たがられた”んだと思う。


ADHDとASDの狭間で、いつも“選ばなきゃいけない側”だった。

けど、どちらかに偏ることを拒んでた。


梨絵の目に、涙が浮かんでいた。


「私はあなたを“思い出してる”。

あなたの声が、私の記憶の中でまだ鳴ってる。

だから、それを書き残すことに、意味があるんだって信じたい」


カーソルが最後の行に届いたとき、彼女はこう書いた。


「あなたは、ここに“いる”。記録にはいないけど、私は知ってる。

それが“存在”じゃなかったら、何なんだろう。」


彼女が保存ボタンを押した瞬間、画面が一瞬だけ黒くなった。

だが、今度はそれが恐ろしくなかった。


次の瞬間、通知が一つだけ表示された。


【久坂直哉:構文外参照ログ1件】

起点:個人記憶内検索に基づく初期化検知


梨絵は画面に呟いた。


「久坂さん、戻ってこい。

記録じゃなくて、私たちの記憶の中に──」


彼女は、新しいファイルを開いた。


タイトル:青山徹

タイトル:伊藤沙希

タイトル:原田誠


次に“記録されなかった人々”が、今、彼女の手によって“記録され始めた”。

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