記録されない履歴書

履歴書を開いた瞬間、梨絵の指先が止まった。


そこに書かれていたのは、自分ではない誰かの半生だった。


出身:某県都市部

学歴:○○短期大学

経歴:地域商社→コールセンター→外注請負


記憶とは違う。

いや、違いすぎる。


自分は地方の大学でデザインを学び、最初の職場は美術館だった。

だが、その経歴は跡形もなく削られ、“汎用テンプレート”のような履歴に置き換わっていた。


「これは……“捏造済みの私”?」


ファイル情報を確認すると、最終更新者は“unknown.sys”。

保存日時は“存在しない未来の日付”だった。


梨絵はスマホで学生時代の友人に連絡を取ろうとした。

だが、メッセージアプリには連絡先が1件も残っていなかった。


SNSもアカウントが無効。

「該当ユーザーは存在しません」とだけ表示される。


次に、卒業大学の公式サイトにアクセスする。


だが──

卒業生一覧に、“沢渡梨絵”という名前はなかった。


「これが……“削除の前兆”……」


久坂の原稿を読み返す。


「削除は一瞬ではない。

まず“記録”が書き換えられる。

次に“関係”が消える。

最後に、“記憶そのもの”が曖昧になる。

だから最も信じるべきは、“まだ記録されていない”感情や風景だ。」


梨絵は立ち上がった。


彼女の記憶にだけ残っている風景がある。

──美術館の屋上。

──就職が決まった夜に友人と泣きながら眺めた空。

──父が遺してくれたスケッチブックの匂い。


「私の履歴はここにある。

 私だけの記録が、まだ私の中に生きてる」


彼女は決めた。


この“書き換えられた履歴書”に対抗する手段は一つ。


──“記憶による履歴書”を、新たに書く。


名前だけでなく、風景・声・匂い・震え・傷──

書類では表現されないものすべてを綴った“存在の実録”。


「書き残さなければ、私も“ただのテンプレート”になる」


キーボードを打つ音が、鼓動と重なる。


梨絵は、まだ“誰かの存在”にされる前に、

自分の“声”を、物語として残し始めた。


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