存在の遺言

キーボードに置かれた両手は、しばらくの間、動かなかった。

目の前には、自分が書いた“最終稿”。

そしてその末尾にだけ、自分が書いていない一文が追加されていた。


「この記録が見つかるころ、私はもう“自分”ではない。」


その文章を見た瞬間、久坂は気づいた。


──これは誰かの“遺言”だ。

──そして、それを残すことが、自分の“存在の最後の証明”なのだと。


彼はPCの前で、自分の声を録音し始めた。

文書では、いつか“書き換えられる”。

けれど、声は──“今”だけを記録する。


「……これが俺の証明だ。

たとえ誰も覚えていなくても、

この音声を聞く誰かがいる限り、

俺は確かに、ここに“いた”。」


録音が終わった瞬間、電気がふっと消えた。

数秒の暗闇。

その中で、久坂は確かに気配を感じた。


部屋の隅。

誰もいないはずの“空白”に、誰かが立っている。


彼はそちらを見ないようにしながら、USBメモリに音声と原稿を保存した。

そして、それを封筒に入れ、宛名を書いた。


「沢渡 梨絵 様」


ポストに投函したあと、久坂はもう一度だけ空を見た。

夜明け前の空は、曖昧な色をしていた。

青とも黒ともつかず、

“自分が今、どこに属しているのか”すら判別できない空だった。


「……せめて、“どこにも属さない場所”に行ければいい」


久坂は歩き出した。


すでに自分の名前を知る者は、ほとんどいない。

けれど、それでも歩く理由はまだある。


自分が“書き換えられる前”に、

“誰かの記憶に爪痕”を残せるかもしれないから。


そして彼はまだ知らなかった。


すでに梨絵のもとにも、“あなたは誰?”という通知が届いていたことを──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る