削除申請の前夜
その日は妙に静かだった。
誰も声を荒げず、笑い声もなかった。
社内チャットには「よろしくお願いします」と「承知しました」しか流れない。
まるで、“何か”が静かに完了に向かって動いているような一日だった。
久坂の机の引き出しの中に、一通の封筒が置かれていた。
差出人は「人事部・記録課」。
封を開けると、そこには一枚の紙。
【削除対象:岡村直人(a.k.a. 久坂直哉)】
実施日:明日
理由:不整合情報の統合処理
署名欄の筆跡は、自分のものだった。
「……俺が、自分の削除を申請した?」
その夜、久坂はマンションのベランダに出た。
風が冷たく、どこか“自分が存在していない空間”に立っているようだった。
スマホを開く。
連絡先の一覧に、“自分の名前”がなかった。
SNSアカウントも、消えていた。
履歴書のバックアップすら、フォルダごと見当たらない。
だが一つだけ、残っていた。
梨絵から届いた音声メモ。
「あんたが消えるなんて、認めない。
名前が消されても、私はちゃんと“久坂直哉”って覚えてるから。
私だけでも、覚えてるから。」
それは、静かながら確かな言葉だった。
久坂はその声を繰り返し再生した。
ヘッドホン越しに聞こえるそれが、唯一の“自分の存在証明”になっていた。
翌朝。
出社すると、自分のIDカードが通らなかった。
管理画面にこう表示されていた。
「該当者なし」
受付に声をかけると、女性は困ったように首をかしげた。
「申し訳ありません、どちらさまですか?」
「久坂です。……久坂直哉」
「……記録が……ありませんね……」
彼女は“何か”を思い出そうとしているように、しばらく目を閉じた。
そして、静かにこう言った。
「“岡村さん”なら、三日前に退職されたかと……」
「いや、俺は岡村じゃ──」
そう言いかけた瞬間、彼女の顔に浮かんだ表情は、
まるで“それ以上話すと危険だ”と告げているようだった。
久坂は黙り、受付を離れた。
エレベーターのガラスに映る自分は、もう“久坂”ではなかった。
帰宅後、久坂は最後の手段に出る。
自宅の机に座り、PCを立ち上げる。
新規ファイルを開く。
【タイトル】存在の証明
【著者】久坂直哉
そう打った瞬間、画面が一瞬だけ黒くなった。
だが、すぐに戻った。
彼は呼吸を整え、キーボードに手を置いた。
「……書く。俺自身の文章で。誰にも消されないように」
その夜、久坂は“自分が書いた記録”によって、
“記憶されない世界”に抵抗しはじめた。
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