書かれた存在

梨絵のオフィス。

深夜。

誰もいない共有スペースの一角で、久坂は彼女のノートPCに向かっていた。


画面には、久坂がかつて納品したとされるWordファイルが開かれている。

だが、見れば見るほど違和感があった。


文体が、“自分の書き方”と似て非なるものになっている。


──句読点の位置。語尾の癖。比喩の置き方。

全体が微かに「ずれて」いる。


「これ、俺じゃない。

 俺の“ふりをした何か”が、俺の名前で書いてる。」


梨絵は黙って頷いた。


「じゃあ、その“何か”はどこから来たの?」


久坂は答えられなかった。

自分が“誰かの人生”を代筆していたはずが、

いつの間にか“誰かに自分の人生”を上書きされていた。


2人は文章の履歴を追った。

PCの自動保存機能、更新日時、クラウド同期──


そのすべてが示すのはただひとつ。


「このファイルは、少なくとも“人間の手”では編集されていない」


更新時刻は、深夜2:48。

誰のアカウントからもログインされていなかった。

しかしその瞬間、梨絵の画面にも何かが差し込まれていた。


「あなたももう、“見た”からね」


画面の左上、ファイル名の欄が一瞬だけ変わる。


【project_ghost_okmr】

→ 【user_rie_sawari】


「……名前が、私になってる」


彼女は肩を震わせ、画面から顔を逸らした。

その動きは、明らかに恐怖だった。


「この文章……書かれるだけじゃない。

“読んだ人間”にも影響してる」


久坂は無言で立ち上がり、カーテンを閉めた。

部屋の奥、ビルの外の反射ガラスに映った自分が、微かに“別の誰か”に見えた。


「もし、“岡村直人”っていう人間が、最初から存在しなかったとしたら……?」


「存在しなかった?」


「うん。つまり、“書かれた誰か”だったら。

最初は名前も顔もなかったのに、何かがその“空白”に情報を挿し込んで──

それで“岡村”という人格が生まれていったとしたら?」


梨絵の言葉に、久坂は震えた。

“記録のために生まれた存在”。

“空白に書かれた人間”。


「それって、俺もそうだったってことか……?」


その瞬間、彼のスマホがブルっと鳴った。

通知の差出人は、見たことのない名前だった。


【okamura_n_real】

「お前の人生、最後の段落は“俺”が書く。」


メッセージの消失カウントが始まる。

──10、9、8……


久坂は思った。


「じゃあ、自分の“最初の段落”は、誰が書いた?」


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