忘れていない者

「……久坂さん?」


その声を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、わずかに浮上した。

職場近くのカフェ。

久坂は、意味もなく逃げ込むようにしてそこに入った。


声をかけてきたのは、元外注デザイナーの沢渡 梨絵(さわたり・りえ)だった。

一度だけ、仕事で短時間だけ接した女性。

彼女は今も、ちゃんと“久坂”と呼んだ。


「……覚えてるのか? 本当に俺を」


「当たり前じゃないですか。

あの時、いろいろ助けてもらったの、今でも覚えてますよ。」


久坂はコーヒーの湯気越しに、彼女の目を見つめた。

それは確かに、目を合わせてくれる人間のまなざしだった。


「俺、たぶん……消されかけてる。名前も、履歴も、存在も。」


梨絵は黙って聞いていた。

彼の言葉の何割が現実で、何割が混乱かはわからない。

だが、久坂直哉という男を覚えているという事実だけは、彼にとって救いだった。


「たとえばね、」と彼女は言った。

「うちのパソコン、ずっと前に送ってもらったファイル、未だに削除できないんですよ。

削除できません:対象が使用中ですって出るんです。」


「……それ、俺が送った?」


「うん。プロジェクト名:OKM_ghost_case。

岡村って、誰?」


久坂は一瞬、息を止めた。


その名前は、もう彼の口から出すことさえ危険だと感じていた。

だが、梨絵の存在が、いま確かに何かを繋ぎとめていた。


その晩、久坂は梨絵から受け取ったファイルを自宅で開いた。


そこには、かつて自分が書いたと思われる文書が記されていた。

しかし、まるで他人が自分を模倣して書いたような微妙な違和感が文体の中に漂っていた。


「岡村直人は、誰かの不在によって生まれた。」

「消えた人間の代理人として、記録の隙間に挿入された。」


「記録されなかった出来事は、他人の名で保管される。」

「そうして、人間は捏造されていく。」


久坂は、画面の前でしばらく動けなかった。


「……代理人……俺は、誰の?」


静かにファイルを閉じたそのとき、再びLINEが震えた。


差出人:不明

「次は誰を消す?」


そのメッセージの下に、返信欄はなかった。

ただ、既読のマークだけが既に見られていることを示していた。

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