名を呼ぶ者はいない

社内の通路を歩いていると、すれ違う社員たちが皆、

微笑んで軽く会釈をしてくる。


──それ自体は、珍しいことじゃない。

だが、なぜかどの挨拶にも共通する“呼びかけ”がなかった。


「……おはようございます、岡村さん」


それを最初に言ったのは、業務用チャットの通知だった。

普段話したこともない他部署の若手社員からのメッセージ。


久坂は即座に誤字かと思い、訂正の返信を打ちかけて──止めた。


その若手のプロフィール欄に表示されている“つながり”の中に、

**「岡村直人」**がいた。


自分の写真が、そこに載っていた。


「失礼ですが……私の名前、覚えてますか?」


試しに話しかけたのは、人事の担当者だった。

中途入社の面接を担当した、数少ない“自分を知るはずの人間”。


彼女は微笑んで、答えた。


「もちろんですよ。岡村さん、でしたよね?」


「……久坂、です。久坂直哉。」


言い切った瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。

まるで、“言ってはいけない名前”を口にしたかのように。


「……申し訳ありません、そのお名前に覚えはありません。

 履歴にも、ございませんでした。」


久坂は、脳が軽く痺れるような違和感を覚えた。

吐き気はない。だが、視界が歪む。


周囲の音が一瞬、遠のいた。


夜、PCを立ち上げる。

副業の原稿フォルダの中に、また“知らないファイル”が増えていた。


『久坂直哉_削除申請.pdf』


開くと、中身は空白の申請書。

だが、ファイルのプロパティには確かに記されていた。


作成者:okamura.n

更新者:社内人事部

日付:明日


──明日。

自分は、削除されるのか?


久坂は“最後の賭け”のような思いで、

かつての同僚に連絡を取ろうとLINEを開いた。

ところが、久坂直哉という名前では検索ができなかった。


試しに、「岡村直人」で検索すると──

そこに、自分のアカウントが出てきた。


アイコンは、自分の笑顔だった。

だが、その顔に見覚えが、なかった。


その夜、夢を見た。


無人のオフィス。

誰もいないデスクの隙間に、“何か”がこちらを見ていた。


「君の名前、まだあると思ってるの?」


声が、空気を揺らさず、鼓膜に直接触れた。


久坂は振り返ったが、そこには誰もいなかった。

ただ、モニターの中に**「存在照会:一致なし」**という文字列が浮かんでいた。

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