02

 帰り着いた日ノ浦がまずやることと言えば、汗が染み込んだ制服とTシャツを洗濯機に突っ込み目分量で洗剤を流し込むこと。おまかせ設定で洗濯を始めてそのままの流れで浴室に入りシャワーを浴びる。古い賃貸なので熱湯と水の蛇口を回して温度を調整するのが面倒だ。

 ぬるま湯と安物のボディーソープで汗と一日の倦怠感を洗い流し、湯船にも浸からず早々に風呂から出る。ヨレたTシャツに短パンという簡単な服に着替えてキッチンに向かった。

「ふぅー……あっつ……」

濡れたバスタオルを頭に被り、冷蔵庫から度数が少し高いチューハイを取り出す。バイトが休みの前夜だけの楽しみとして10%近いチューハイのロング缶をストックしている。とはいえコンビニで買ってきた安物だが。プルタブを起こせばカシュッと心地よい音が鳴り、炭酸の弾ける音を聞きながら風呂上がりの一杯を決める。レモンの爽やかさを押しのけてアルコールの匂いが鼻を抜けていく。

 昨日から調理台の上においたまま放置されているレジ袋の中に手を突っ込み、カップ麺を取り出して電子ポッドの熱湯を注ぐ。3分待つ間に缶チューハイとカップ麺を両手に持って向かうのはパソコンデスク。高価な精密機器が詰まった箱と少し大きめのモニターはゲーム好きの親戚から大学の入学祝いでもらったものだ。――そこで両親と親戚を巻き込んでひと悶着あったが、これは今関係のない話。


 パソコンを起動させて日課のネットゲームにログインする。ロビーに降り立つまでのロード時間でカップ麺のうどんを箸でつついてみたが、まだ少し硬そうだ。エアコンのリモコンに手を伸ばして冷房を入れれば少しの間を開けて冷気の塊が直接身体にぶつかる。パソコンが少しでも熱を持たないようにと配置を考えた結果、人間の都合が無視された配置になってしまった。

 短いロードの後、ロビーに放り出されてすぐにパーティーチャットで挨拶を打ち込む。


――おつ〜

『おぉ、Ranger氏、おつですよ〜』


チームチャットに挨拶を打ち込めば、ものの数秒で返信が飛んできた。これはチームメイトのもみじだ。普段の生活が想像できないほど常にオンライン状態の猛者である。その後オンラインのチームメンバーからちらほらと短文の挨拶が飛んでくるが、そのまま話を続けてきたのは椛だけだった。ゲーム内で知り合った当初からボイスチャットは苦手らしく常にテキストだが、言い回しが特徴的な文言がテンポよく返ってくる。


『今日もバイトだったので?』

――そっそ。マジでこの時期に外で仕事するもんじゃないわ。冬まで引き篭もってたい

『わはは。お勤めご苦労ですな』

――で、今日どうする?椛はなにしてんの

『もうすぐ緊急クエストの予告が来るので待機しとるですよ。骸の戦艦ですな』

――おー、行くか。そっちのフロア向かうわ

『おまちしてま』


椛の居るブロックに降り立った瞬間、というより、ロードの時点で既に椛からのパーティ申請が届いていた。申請を許可してパーティチャットに切り替える。


――相変わらず早いんよ

『わはは』


食べごろになったうどんを啜りながらロビーで佇んでいると遠くから見慣れた姿のアバターが近寄ってきた。椛という和風で可憐な名前からは想像できない、いかめしい武士然とした機械人間の男が目の前に立ちはだかる。

 背中に携えた刀のカラーリングや雰囲気に合わせてアセンブルをまとめているので良い意味で目を引く。対する日ノ浦のアバターは褐色肌に銀髪で耳の長い種族の小柄な女性。活発な印象を受ける短髪に武闘家のような露出の多い衣装が褐色の肌を際立たせている。最近苦労して手に入れた最高レア度の二丁拳銃がやや不釣り合いな風体で背中に収まっている。


『緊急までにやりたいことあります?』

――特にないから、始まるまで準備するわ

『なら開始まで待機ですな』


緊急クエストが案内されるまでの間、暇を持て余した日ノ浦は椛に今日の出来事を打ち明けてみた。


――そういえば今日さ、毎日通勤で使ってる道が心霊スポットとして紹介されてる動画を見つけてさあ

『それは嫌すぎですな』

――うん、なんか絶妙に嫌

『Ranger氏は霊感とかあるんで?』

――ないよ。だからビビってんのよ。俺そんな鈍感?って

『霊感ない人はそんなもんじゃないです?自分も同じく霊感ないんで、心スポとか言われても何もわかんないですけど、良い気はしませんな』

――だよなぁ


ぐいっとチューハイをあおりながら日ノ浦は帰りに感じた気味悪さを思い出す。廃商店街を走り抜けた時に何かがポケットから飛び出した感覚が蘇りおもむろに席を立った。風呂場で脱ぎ捨てた薄手のパーカーのポケットに手を突っ込んでみたが、どうも違和感がある。あるべき物がないような――

 慌ててデスクに引き返してチャットを打ち込む。まずい。


――まずい

『いかがされたので?』

――俺のイヤホン、例の心霊スポットで落としてきたっぽい

『あちゃー。それは回収したほうが良くないです?』

――うーん、面倒だけどそうだな……

『ま、こっちのクエストはいつでも行けますし、早く迎えに行ってきなせえ』

――誘っといて申し訳ねぇ。ちょっと行ってくるわ

『これはRanger氏失踪フラグ』

――やめろよw

『わはは。健闘を祈るですよ。こちらはお気になさらず』


椛が両腕を大きく動かして手を振る仕草を横目にゲームからログアウトする。一刻も早く外に出たい気持ちを抑えてカップ麺を胃に詰め込み、さっき脱いだ服にもう一度着替えて小走りで玄関に向かう。うまく履けないスニーカーも雑に踵を踏み潰してボロい外階段を駆け下りる。

 向かうは夜中の廃商店街。どうせ落とし物を回収するだけだと自分に言い聞かせるが、胸の奥でざわめく灰色のモヤは冷たく膨張し、視界の端が一瞬モノクロに滲んだ気がした。


 夜中の街は蒸し暑く、廃商店街へ向かう道すがら、アスファルトから立ち上る昼の残滓がスニーカーの裏をじりじりと炙る。なんでこんな事してるんだろうと弱気になるが、いつも音楽を聴きながら歩いている道と無音で対峙するとどうにも胸がざわついて自然に足が速まる。

 息を切らして商店街のアーケードに辿り着くと、通い慣れたはずの風景がどこかよそよそしく感じられた。暗い路地に続くシャッターの列はいつもと同じなのに、まるで違う場所に迷い込んだような不安が背筋を這う。

「なんだこれ……怖すぎんだろ」

怖気づいて帰ろうとしたその時、脳裏に浮かんだのはイヤホンの値段だ。数ヶ月バイト代を貯めて買ったそこそこ高い奴で、落としたままにするのはどうにも惜しい。

 意を決してアーケードの暗闇へ足を踏み入れると、スマホのライトを足元に近づけて照らす。コンクリートに散らばる埃やゴミが白く浮かび上がるが、イヤホンケースらしきものは見当たらない。歩を進めるたび、背後でかすかにシャッターがカタカタと揺れる音がして、恐る恐る振り返っても何もない。薄暗い光の中、自分の影すら妙に歪んでいる気がした。

 もう長い間使われていない場所なので、路地の隅に整列する街灯はシャッターの沈黙と寄り添うように重たく項垂れている。日ノ浦は「どこだよ……」と呟きながらしゃがみ込んでシャッターの下を覗き、埃っぽい隙間に手を伸ばす。必死に探すうち、流れる汗も自分の荒い息遣いも気にならなくなっていた。

 どれだけ探したか分からないまま立ち上がると、ふと違和感に首を傾げる。スマホのライトを消しても、足元がぼんやり見えるのだ。目をこすり、辺りを見回すと、いつの間にかアーケード全体が薄明るく照らされていた。項垂れていた街灯がまるで目を覚ましたように淡い光を放ち、閉ざされたシャッターの列に不自然な影を落としている。

「酔ってるのか……?」

確かに普段よりも度数の高いチューハイを飲んで来たが、それくらいで幻覚を見るほど酒に弱くはない。胸の奥で冷たく膨張していた灰色のモヤが一気にざわめき出した。日ノ浦は踵を返して家の方角にある出口に向かう。


 一刻も早くこの場から逃げ出したい。イヤホンなんか明日の明るい時間に探せばいいと言い訳して大股で出口を目指す。しかし歩けど歩けど出口が近づかない気がして足が重くなる。遠くの暗闇と歩行者信号の赤い光が一向に近づかないことに気づく。

「…………なんで……?」

失笑と共に言葉が溢れ落ちた。薄暗い街灯、いくら歩いても外に出られないアーケード。自分の足音だけがやけに響いて耳障りだ。


 酔いも完全に覚めて足元から震えが上がってきた。周囲を観察しながら歩き続けていると、次第に思考もハッキリしてきた。と同時に、今まで気が付かなった物が目に止まる。

 左前方にシャッターを上げて明かりを灯している店がある。引き寄せられるように光の元へ向かい、外壁の看板に目を凝らす。

「……古書、店……?」

色あせた文字がどうにか読めた。古書店の前に何か文字があったようだが、そこは汚れていて全く読み取れない。


 “商店街の中で唯一開いている店”と女子高生達は言っていたっけ。なぜ古書店なのだろうか。店内に目をやると、くすんだ蛍光灯の明かりに照らされた本棚や平置きされている本が並んでいる。棚はささくれや色落ちが酷いものの、天を向いている表紙はホコリひとつなく真新しい。そのギャップが余計に不気味さを際立たせているように見えた。しかし店内に人の気配は無く、話しかけるべき人物は見当たらない。と言うことは。

「もしかして帰れない……?」

背筋が冷える。何かに縋るように狭い店内へ踏み入って周囲を見渡す。本棚が身を寄せ合い人が一人通れるだけの狭い通路の奥、レジカウンターのような物が見えた。

 近寄ってみるもそこは無人で、カウンター内にはこの古書店が醸し出す懐古的な雰囲気には似つかわしくない小型のモニターが色褪せた事務椅子と向かい合っていた。黒縁の薄いモニターはバラエティ番組を垂れ流し、さっきまでそれを見ていた誰かの帰りを待っているようだった。

「あっ、あれは……」

そのモニターの横、カウンターの外からは手が届かない場所に見慣れた白いケースがあった。中に入って回収したいが、万が一他人の――ここに居たであろう人物の私物だったらどうしようと思案して動きが止まる。

 店員はどこかに出掛けているのだろうか。一抹の心細さから、日ノ浦は店を出てもう一度アーケードを見渡す。どんよりと暗く灯った街灯と寒々しいシャッターの列はもう見慣れたもので、その他に動くものや人影は全く見えない。


肩を落とし、俯いた目線の先に陳列されている本を一冊持ち上げてみる。本には全く興味がないが、ベストセラーのタイトルくらいならネットやテレビからの情報で聞き覚えはあるはずだ。しかしハードカバーの表紙を覗き込んだ日ノ浦は自分の目を疑った。――読めない。目を擦ってみてもタイトルを指でなぞってみても、やはり読めない。見覚えのない文字列が表紙を飾っている。

 変体仮名のような文字。これは自分のいる世界の文字ではない。日ノ浦は直感的にそう感じた。日課のオンラインゲームでも背景に描かれている文字は架空の字体で、日本語や英語とは似て非なるものだ。恐る恐る表紙を開いて適当なページに目を通す。やはり表紙と似た文字がぎっしりと白い紙に印字されていた。思わず目眩を覚えてそっと本を元の場所に戻した。その瞬間。


「お客サン、冷やかしなら帰ってくれる?」

不意に背後から声をかけられた。弾かれるように振り向くと、そこには日ノ浦を見下ろすように長身の男が一人佇んでいる。小首を傾げて腕を組む姿に、日ノ浦は思わず悲鳴を上げそうになった。

 というのもその男は、8月には似つかわしくない厚手のモッズコートを着込み、大きなフードの下には真っ黒なガスマスク。その口元にあたる部分にはカラスのような太い嘴。まるでガスマスクとペストマスクを合体させたような見た目をしている。ゴーグル型のレンズは黒く、奥にあるはずの目は見えない。脚元も迷彩柄のカーゴパンツに黒いブーツといった出で立ちで、彼の素肌と言えるものは全て隠されていた。いや、それよりも​――

「……なに?俺の顔になんか付いてる?」

と言いながら訝しげにガスマスクを撫でる手の後ろで所在なげに揺れているのは真っ黒で巨大な両手。それはその男の背中から“生えて”いるようだった。背後の街灯を透かして、煙か細かい砂のようなものでできた不気味な両手はユラユラと男の膝辺りまで降りて来た。男は日ノ浦がその動きを目で追っているのに気付いたのか、あぁ、と呟いた。

「俺としたことが申し訳ない」

にべもなく謝る言葉を言い終わる前に、歪な両腕がするすると背中に吸い込まれていった。

「見なかったことにできる?」

「えっ」

「キミがさっき見てたやつ。ていうか、商店街この場所の存在自体がイレギュラーだから、まるごと忘れてくれたほうが助かるんだけど」

非現実的な出来事の連続で日ノ浦が声を出せないのを良い事に男はつらつらと言葉を続ける。訳のわからない現状を少しでも理解しようとするがどうにも頭が働かない。

「助かるんだけど?」

返事をためらっているとカラスの嘴を付けたガスマスクが念押しするように迫ってきたため、日ノ浦はたまらず小刻みに首を縦に振る。

「オッケー。それじゃ、そこの路地を抜けたら外に出られるから」

男は満足そうに大きく頷いて、目の前にあるアーケードと垂直に交わる細い路地裏のような道を指差した。

「二度と来るなよ。あとここで起きた事はすべて忘れること。それじゃ」

半ば追い出すように無理やり話をたたんで、ガスマスクの男が店内に入ろうと日ノ浦の隣をすり抜ける。日ノ浦はしばし呆然として男の背中と路地裏を交互に見比べていたが、ハッと思い出したように男を呼び止めた。

「あ、あの……!」

「……何?」

憮然とした口調が返ってくるが、怯まずに店内のカウンターを指差す。

「あの、そこのカウンターにあるイヤホンケース……多分俺の……」

「え?……ああ、あれキミのなんだ。道端に落ちてたから拾ったんだけど。探しに来てたってこと?」

「あっ……はい、そうです……」

「あっそ、じゃあ持って帰りなよ」

ぬぅ、と店内から大きな黒い手が伸びてきた。さっきあの男から生えていたものと同じだ。おっかなびっくりしながら両手を器のように広げると、その上にぽとんとイヤホンケースが落とされた。音もなく戻っていく手を目で追っていくと、男の背中に消えていくのが見えた。

「ありがとうございました」

「そういうのいいから。暗いからコケんなよ」

見えているかどうかわからないが、日ノ浦は店内に向けて大きくお辞儀をして先ほど教わった路地裏に足を踏み入れる。イヤホンケースは落ちないようズボンのポケットにねじ込んだ。


 狭い路地裏は不自然な程に真っ暗でスマホのライトすら心許ない。これで元の場所に戻れるのだろうか。まさか騙されたのでは。不安になってきた頃、突然の目眩に日ノ浦は足を止める。

「うぅ……っ!?」

得も言われぬ気味悪さに襲われて先に進めない。頭が痛い。目が回る。今にも吐きそうだ。なんとかスマホだけは落とすまいと握りしめ、壁に凭れてずるずると座り込む。どっちが前だろう。どっちが上でどこが地面で……?

 急激に意識が遠のき、狭い路地で蹲る。もうダメだと意識が朦朧とする中、コツ、コツ、と低く重たい足音が近付いて目の前で立ち止まった。

「困るよオニーサン。こんな所で寝てもらっちゃあ。ちゃんと帰れって言ったろ」

さっき聞いた声のような。日ノ浦はそれ以上考えることができずそのまま気を失った。

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Monochronicity(モノクロニシティ) 羚傭 @Bafflegab

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