第11話
「…――ここに稲生梨紗という患者はいますか?」
いくつもの施設を回った。
それこそ心が挫けそうになるくらいに、だ。
○○市という名前で括られた範囲は決して狭くなく、しかもそれ以外の手掛かりはないに等しいのだから、そう簡単に見つける事はできなかった。
いつまで経っても見つけられない現状にイライラし始め、またここも違う、と車に戻ってはイライラを抑えるように長く息を吐き出す毎日。
便箋に押されていた○○市の押し印に頼るしかないのに、まさか梨紗がここに居たのは偶々で今は違う場所に居るのかもしれない、なんて思いが俺の胸を巣食う。
一体梨紗はどこに居るのだろうか。
何度も梨紗にまた会える夢を見て、…そして何度も涙を流した。
それでも諦めないのは、君を愛してるから。もう一度君に俺の名前を呼んでもらいたいから。
梨紗。
『智』と、君の可愛い声で呼んでよ。
希望を持っては絶望して、…そういう思いを何度越えた時だろうか。
…――俺は、やっと君に辿りつけたんだ。
「ええ、いますよ。稲生梨紗さんですね」
夢かと思った。いつもの、夢かと。
目の前でにこにこと微笑んでいるのは、若い女性の介護士さん。てきぱきとした動きで俺を案内してくれている。
「最近は介護者の手を借りないと、ご飯も食べられないし服も着られないのですが、元気で明るくて…私達も救われています」
彼女が言う梨紗の話はなんだか現実味を帯びないし、何故か彼女は俺の事を知っていたからこれはやっぱり夢なのかもしれない。
梨紗を求めすぎている俺の生み出すいつもの夢なのかも。
「あーでも本当に良かった…」
突然安心したようにほっと息を吐いた介護士さんに目を向けると、「今内心とてもはしゃいじゃってます」なんて訳の分からない事を笑顔で言われて更に現実味をなくした。
「はい?」
「梨紗ちゃんはこれでいいって言ってたけれど、私は全然納得してなかったんです」
「……」
とても慣れたように梨紗の事を『梨紗ちゃん』と呼んだ介護士さんは、ふふっと笑った。
何が何だか分からないけれど、これがもし夢だとしても梨紗に纏わるものなら話を聞こうと黙った俺に、「梨紗ちゃんからちょっとだけ話を聞いた事あるんです」と介護士さんは言った。
「だから私は柏木さんが梨紗ちゃんに会いに来てくれてとても嬉しいんです」
白い廊下を右に曲がっても広がる景色は同じで、どこまでも扉が続いているだけ。
「あの奥の部屋ですよ」
本当に嬉しそうに話してくれるものだから、何故か俺も嬉しくなって今までのイライラなんてどうでもよくなった。
「――ここです」
そう言って一つの扉の前で立ち止まった介護士さんは、何故かそこをどけようとしない。
俺が入るのを止めるように扉の前で通せんぼをされ、俺の足も必然的に止まった。
さっきまで笑っていた顔は真剣そのもので、そのギャップに声もかけられなかった。
「――ひとつ、言っておきます」
小さく吐き出された声は、明るさを失っていた。
「梨紗ちゃんは、……もうこの先きっと貴方を思い出す事はないでしょう」
「……」
「その事で感傷的になってしまうなら、貴方はここに入るべきではありません」
強い瞳が俺を射る。
「私は梨紗ちゃんと約束しました」
「…約束…?」
「『もしも、もしも智が来てしまったらここには居ないと言って』」
「……」
「どうしてそんな事を言ったかは分かりますね?」
介護士さんの両手はいつのまにか元の位置に戻っていて、扉の前を邪魔するものは何もなくなっていた。
「…忘れて、しまうから…」
全てを忘れてしまうから。
「そうです。それでも私は貴方をここまで連れてきた。何故だか分かりますか?」
悲しくなったけれどここで泣く事は許さない気がして、介護士さんの挑戦的な瞳をじっと見ていた。
「会わせる事で梨紗ちゃんにも貴方にも酷な結果に終わるかもしれません」
「それはっ、」
「それでも。それでも私はもう一度梨紗ちゃんに貴方を会わせてあげたいんです」
貴方の為ではなく、梨紗ちゃんの為です。
「一度だけ梨紗ちゃんが本音を言ってくれた事があるんです」
「……」
「『もう一度、智に会いたい』…私は、きっと他のどの言葉よりもこの言葉が彼女の一番の本音だったのだと思っています」
――本音を言ってくれた梨紗ちゃんの為に、私は貴方をここまで連れてきました。
介護士さんの鋭い瞳が俺という人間を見定めようとしている。
何が正解で何を言えば良いのか全く分からなかったけれど、俺は無意識に口を開いていた。
「俺は、」
「……」
「俺は、――誰よりも梨紗を愛してる」
出てきたのはそんな言葉。
だけど、それはどんな言葉よりも俺の気持ちを代弁してくれている。
そんな俺の言葉が正解だったのかどうなのかは分からない。
だけど、見つめた先の介護士さんは、心からにっこりと笑っていた。
「最後に、何か質問はありますか?」
「これは、…――夢ですか?」
「――いいえ、」
私も夢を見ているのでなければ、これは現実ですよ。
微笑んだ介護士さんの胸の名札には、『秋江』と書かれていた。
「…――どうぞ、お入りください」
ガラッと音を立てて開かれた扉の中へ、ゆっくりと足を進めた。
「……」
梨紗の個室には写真が沢山貼ってあった。
梨紗の家族、友達…そして一番多いのは俺との写真。
初めてのデートの時の写真。梨紗の家で撮った写真に、俺の家で撮った写真も。
二人で出かけたいろんな場所場所で梨紗が撮った写真が貼ってあった。
"今あたしはとっても幸せよ。だって、大好きな人に囲まれてるんだもの"
手紙に書いてあったことは、こういう事なのか。
ふっと胸が熱くなって泣きそうになったのをどうにか堪える。
「……、」
部屋を見渡すと、壁一面に貼られた写真よりも一際目立つ、梨紗のベッドの傍にある写真立て。
その写真に写っているは…笑顔の俺。
梨紗の前ではこんな顔をしていたのだと初めて気付く。
その写真の下の方には大きめの付箋が貼ってあった。
"柏木智
稲生梨紗の愛している人"
…――涙が零れ落ちた。
"愛している"人……"愛した"人ではなく、"愛している"人。
現在進行形で、俺を愛してくれている…
例えその事実を忘れてしまっていても、忘れまいと書き残してある事が俺にはとても嬉しかった。
よく部屋を観察していると、他の写真にも所々付箋が貼ってあるのが目に付いた。
"…△年8月13日"
"…△年9月21日"
"…△年9月28日"
その日付が、その写真を撮った日ではないと分かる。
何の日付なのか。
もっとよく見てみると、同じ日付というのが結構あった。
…そうか。
きっとこの日付は、梨紗がその日の事を思い出した日なのだろう。
だけど、最近の日付はなかった。
…もう梨紗は…
そう思いそうになった時、梨紗のベッドの傍にファイルが落ちてある事に気付いた。
歩いて行き、それを手に取る。
"稲生梨紗へ
△年8月13日~"
懐かしい梨紗の字でそう書かれているファイルは、ルーズリーフが綴じれていて随分と分厚くなっていた。
日付はあの日から。最後に梨紗と話したあの日からだった。だとすれば2年以上書き続けている事になる。
俺は分厚いそれを一枚めくった。
"△年8月13日
あたしは稲生梨紗です。あたしは何もかもを忘れてしまう病気で、きっと忘れた事も忘れてしまうので、あたしの生きた記憶をこれに書いていこうと思います。
ベッドの傍にある写真は柏木智君。あたしの大好きな人。彼と暮らしていたけれど、あたしの病気のせいで彼を傷付けてしまいました。あたしはこの病気をとても呪いました。
愛する人の顔も名前も忘れてしまう。本当は離れたくないのに、だけどあたしは智の事を忘れてしまうから…
これ以上智を傷付けたくなくて、あたしは自分から智の傍から離れました。だけど、離れて分かったのは、あたしにとって智がどんなに大切な人になっていたか。
もう既に寂しくて、悲しくてなりません。
最後に智がくれた言葉。
『愛してる』
初めて言われたその言葉は、少し悲しくて…でも凄く嬉しかった。"
中途半端に終えられた文章。
白い紙には所々に小さく何かが滲んだ跡があった。
俺を想って泣いてくれたのか。悲しくなってそれ以上書く事ができなかったのか。
ただの推測だけれど、きっと真実に近い想像なのだと思う。
梨紗の気持ちに心が痛んだと同時に、彼女が泣いていた時に傍に居られなかった自分を本当に悔いた。
もっと俺が大人だったら、梨紗はあの時病気の事を俺に話してくれただろうか。俺の腕の中から離れて行かなかっただろうか。
そんな後悔が未だ俺の胸を巣食ってる。
だけど、
『愛してる』
あの時言った言葉は梨紗に届いていた。
それだけがせめてもの救いだった。
「……」
俺はノートをどんどん見て行った。
"△年9月20日
久しぶりに思い出したので書きました。
智…あたし、自分が怖いよ。智から離れて1カ月と少ししか経ってないのに、あれ程大好きな智を忘れてしまった自分が怖い。部屋にある智の写真を見て、誰だろう、なんて思っちゃた自分が怖い。
このまま智を忘れてしまうんじゃないだろうか。その事が一番怖い。
ごめんね、智。あたし達が愛し合った日の事も忘れてしまって。
ごめんね、智。あんなに愛した智の事を忘れてしまって。"
"△年12月2日
今日は久しぶりに智のことを思い出した。
思い出した自分を褒めてあげたい。このまま忘れなければいいのに。そうは思うけど、あたしには無理だから。だけど、智を忘れないように努力することはできる。
介護士の秋江さんによると、あたしは智のことを忘れていても、毎日写真を何時間も眺めてるんだって。智の写真立てを見て、格好良いねって言ってるんだって。
恥ずかしいな。"
ノートをめくるたびにポジティブになって行く梨紗。
最初は忘れることが怖いと書いてあったのに、思い出したことが嬉しいなんて。
梨紗がちゃんと病気と向き合っている事に、ほっとした。
やっぱり梨紗には、笑顔が似合うから。
"×年3月12日
このノートを見て、思ったことを書いてみようと思う。
稲生梨紗へ。そう書いてあったこのノートを読んでみると、あたしは智って人のことを愛していたのかな?って思う。
でも、部屋中にある写真を見ても、智と書いてある男の人は誰だか分からない。最初のページに書いてあった"怖い"という意味さえ分からない。
確かにあたしの字のなのに、それを書いた覚えなんてないし。
それがあたしの病気なのかな?
でも、ノートに書いてあることが本当なら、智って人はなんて可哀想なんだろう。
愛し合った、そう書いてあるから。あたしは智って人のことを忘れてしまっているのに。"
少し胸が締め付けられる。
梨紗の病気がどんなも辛いものか、思い知らされたようだ。
俺を知らない人のように書いてある。
忘れていく病気だと分かっていたのに、俺は心のどこかでは『俺の事だけは覚えてる』なんて自惚れていたのかもしれない。
そのせいで、俺はこんなにも傷付いていて……本当に馬鹿みたいだ。
"×年5月3日
今日もすごくあつい。
秋江さんがアイスクリームをくれた。
あたしの部屋にある写真の男の人はだれなんだろう。そう言うと、あきえさんは少し悲しいかおをした。なんでか分からないけど、あたしも悲しくなった。"
だんだんと平仮名が多くなってきた。
まだ1年も経ってないのに…
始めの頃は毎日書いていたのに、だんだんと日付にも間が開いてきた。
この頃には1カ月に1回書いてあるかどうか、くらいになっていた。
"×年8月3日
今年もあつい。"
"×年11月11日
ひま"
"×年12月25日
今日はクリスマスパーティーをした"
だんだんと一言になっていく中、ノート1ページにも渡る文章があった。
"□年8月23日
すごい!今日は何もかもを思い出したの!
智と初めて出会ったのは、大学のいちばん大きな木の下。おとうとの名前は、まひろ。
いっぱい思い出したよ。
だから記念に智に手紙を書いたの。
だけど、あの手紙の内容はうそだらけ。あたしを忘れて全然良い、なんてうそ。大好きになってくれる女の子をさがして、なんてうそ。さようなら…なんて、うそだよ。
本当は、忘れてほしくない。あたしをさがしてほしい。ねがわくば、ずっとあたしのそばに居てほしいの。
だけどあたしは忘れちゃうんだから、そんなこと書けない。だから、このノートに書いときます。
あたしは今でも智を愛してる。"
「……っ…!!」
"本当は忘れたくないよ。できるなら、智との思い出をさいごまでのこしておきたい。幸せだったあのころを。
ううん、今でも幸せかも。だって智との写真で囲まれてるんだもの。
だけど、本当に…今思い出したこのきおくをもう二度と忘れたくないよ。
どうか、さいごにのこってるのが、智とのきおくでありますように…"
「…梨紗っ…」
梨紗。
梨紗。
こんなにも涙が出るのはなんでだろう。
君の想いに胸が苦しくなるよ…
俺はガキで。
ちっぽけで。
君を優しく抱きしめてあげれる程の、大きな胸がない。君の不安を拭ってあげれる程の、大きな手がない。
ただ、今は…今なら君の全てを抱きしめてあげれる自信があるんだ。
…君にもう一度伝えたい言葉がある。
今度は、直接。
顔を見て言いたいんだ。
「…――誰?」
振り向いた先には、2年前と変わらない可憐で繊細な女の子。
…梨紗、これからもずっと君を愛してる。
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