第10話
それから俺は必死になって梨紗を捜した。誰も彼女の居場所を知らない、この何もない状態で。
…それはとても難しい事だった。
朝起きてスーツに着替え会社へ出勤する。お昼には彼女の作った弁当ではなくコンビニで買った弁当を食べながらヤマダの話を上の空で聞き、冗談には小さくクスリと笑う。
空いた時間には彼女の知り合い――幼稚園の同級生から大学の先輩後輩まで、少しでも関わった全ての人を調べては電話を掛けて、小さな手掛かりを求めた。
退社後や休日は、情報提供してくれた人達のもとへ向かって、詳しく話を聞いたりした。
『梨紗は幼い時から正義感が強くて、いじめられている子がいると何気なく仲間に入れてあげたりするんです。決して目立とうとはしなかったけれど、あの子はいつも皆の憧れだったんですよ』
『実を言うと私、稲生さんのあの冷たい目が嫌いだったんです。でもある時気付いたんです。稲生さんは本当は誰よりも自分に正直なだけなんじゃないかって。その頃の私は偽りの笑顔ばかりで、誰にも合わせようとしない彼女がただただムカついてて…でも今は、本当はそんな彼女に憧れてたんだと気付いたんですけどね』
『梨紗の行きそうな場所?ああ、梨紗ならどうせ自然がいっぱいある所に行くんじゃない?あの子に喧騒な所は似合わないでしょ』
『梨紗先輩の彼氏さんなんですか?うわあ、おめでとうございます!梨紗先輩凄くモテるのにみんな断っちゃうから心配してたんですよ!』
『お父さんが亡くなられた時もしっかりしててね、偉かったよあの子は』
『稲生梨紗?…ああ、鈴木の彼女ね。何?え?"元"彼女?ああ今は君が彼氏なの、ごめんね。うん、会った事あるけど…まあ現彼氏さんには悪いけど、彼女、鈴木にベタ惚れだったよね』
『ああ!梨紗ちゃんならいつもここに来てくれてるよ。綺麗な髪だよね。いつも染める?って冗談で言うんだけどあの冷静さで即座に断られるんだよね。いつかあの髪、好きなようにいじりたいわ』
どんな些細な事でも何でも聞いて来た。居場所でなくても、幼い時の彼女や何気ない会話を教えてもらえるだけで充分だった。
新たな彼女を知る度にもっと好きになるんだ。
ただ、彼女の居場所は分からず時間だけが過ぎて行った。
『智』
瞼の裏に浮かぶ君の笑顔が、君の声が、日々無情にも俺の記憶から薄れていってしまうのがとても悲しかった。
一体この広い世界のどこに君は居るのだろう。
こうして君と離れて初めて気付いた。俺は本当に君だけで、きっと君も俺だけなんだ。
この広い世界の中、数多くの人達の中で君を見つけたことは…俺の誇りだ。
君を愛せてよかった。俺は君に、愛を教えてもらったんだ。その想いがこんなにも幸せで、離れていても消える事はないのだと、それが愛なのだと、君の御蔭で俺は知る事ができた。
こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。
女の子は皆可愛くて…ただそれだけだったのに。ずっと傍にいたいなんて気持ち、君に初めて感じた。自分の顔なんて傷付いていい、そんな事思ったのは初めてだったのだ。
自分の顔が大好きだった。何よりも。
自分の顔が一番だった。誰よりも。
だけど…それよりも大事な人を見つけたんだ。俺は、君が、傷付く事の方が嫌だった。君と引き換えなら、俺の顔なんてどうでもよかった。
そんな事を思える時が来るなんて思っていなかった。
顔と比べるなと君は怒るかな?ごめんね、ナルシで。俺は本当にナルシだった、今ならそう、正直に認められる。
でも今は違う。断言できる。顔なんてどうでもいいんだ、ただ、傍に君が居てくれれば、それだけで俺は幸せなんだ。
だから、…俺は俺の幸せの為に君を捜す。絶対に捜し出してやる。
梨紗…どうか、こんな俺を馬鹿だと笑ってね。君の笑顔は、俺を最高に幸せにするのだから…
2年。
2年の月日が経った。
けれど梨紗の居場所は何の手掛かりも掴めていない状況だった。
日に日に薄れて行く彼女の笑顔、彼女の声、彼女との思い出。
何気ない会話はもう、思い出せない。
このまま全て忘れてしまうんじゃないかと怖くなっては、彼女を求めるように彼女の跡を探した。
枕に移った彼女の香りはもう、消えてしまった。それ程、2年という月日は長かった。
けれど、決して諦めたりはしない。
いつの日だったか、鈴木が言った言葉。
『貴方は愛している女性を簡単に諦められるんですか?』
そんなの、答えは決まってる。
俺には梨紗だけだし、梨紗だってきっと俺を求めてる。
諦められる訳、ある筈ない。
梨紗が消えて2年もの月日の間、全てが相変わらず、なんて事もなく、街も随分変化したし俺の住むアパートの隣の部屋の住人も変わった。
もちろん、人の心だって変わるには充分な年月が過ぎた。
俺を好きだと言っていた梨紗と同姓同名の彼女は、隆太と結婚した。
結婚式に呼ばれたけれど、本当に2人共、とっても幸せそうに笑っていた。
篤子ちゃんにはボーイフレンドができたらしいし、それを『ませてる』と笑った先輩の腕には赤ちゃんが眠っていた。
そして、あれだけ梨紗を困らせていた鈴木だって例外ではない。
4年間も俺達の邪魔をしておいて、今は違う女の子と幸せそうに笑っていた。
人は皆、鈴木の方が賢明だと言うかもしれない。
見つかるかも分からない女の子を想って暮らすよりは、新しい彼女でも作った方が良い、なんて。
だけど俺はそうやって妥協して生きていくなんてできない。鈴木が諦めたように、俺も梨紗を諦めるなんて、そんなの考えた事もないし、何年掛かろうが俺は絶対に他の女の子を見たりなんてしない。
『…――智、起きて?遊びに行こうよ』
『智、カメラ忘れちゃった…』
『智、大好きだよ』
『智』
今でも夢を見る。
幸せだった頃の夢を。夢の中の君は色んな表情をしている筈なのに、それを目を覚ました俺は覚えていない。
きっとあの綺麗な顔をくしゃっとさせて笑ってた。きっと唇を尖らせて拗ねてた。きっと俺を想って泣いてた。
そんな事は何となく分かるのに、肝心のその表情は綺麗さっぱり俺の頭から抜け落ちている。
夢の中の俺はとても幸せな顔をしていて、だけど夢から醒めた俺の顔は、悲壮感に溢れてる。
梨紗。
もう君のいない朝に慣れちゃったよ。君も…俺のいない朝に慣れてるのかな?
俺はベッドから体を起こし、朝食にパンだけを食べた。
一人だと必然と疎かになってしまうから、梨紗の居ない朝は、いつもこんなもの。
会社に行く為に着るスーツだって、しわくちゃで。
どれ程梨紗が毎日しっかりしてくれていたか改めて思い知らされて、また今すぐ梨紗をぎゅっと抱き締めたい衝動に駆られた。
前と変わらない職場に行くために、俺は前と変わらない玄関の扉を開けて外に出る。
君がいつ帰ってきてもいいように。
アパートだって、携帯の番号だって、俺に纏わるものは何一つ変わってなんていないから。
他の何が誰が変わろうと、俺だけは君が居た頃と何も変わってないよ。
13段の階段を下りて狭い通路を抜けた俺はアパートの出入り口にあるポストに目を向ける。
普段は通り過ぎるだけなのに、今日は珍しく何かが入っていた。
何かの勧誘かな?
そう思って手に取ったそれ。
…――渇いた頬に無意識にも涙が伝っていた。
薄い桃色のシンプルな便箋の上に描かれた、懐かしい君の字。
涙を拭う事もせず、無我夢中で走って部屋へと戻っていた。
バタンと扉を閉めて飾り程度の玄関で、靴を脱ぐ事も煩わしくてその場で便箋を開けた。
指が震えて落としそうになりながらも、綺麗に折り畳まれた紙をやっとのことで開いた。
早く中身を見たいのに、涙が邪魔をして読む事ができない。字が、梨紗の想いのこもった字が、ぼやけて見えない。
そこでようやく自分が泣いている事に気付き、必死にスーツの裾で涙を拭って――、
"柏木智様"
「…っ!!」
やっと、見つけた…
やっと君に会えるかもしれない。
便箋には"○○市"という押し印がされていたから。
すぐに会社に電話をして、無期の休暇を貰った。
梨紗、今すぐ君に会いに行くよ。
"智、ふしぎなことにとつぜんきおくがもどったの。平がなばかりで、はずかしいけど…"
そう書いてあるのに、智、という字は漢字だという事に嬉しくなる。
"なのできねんに手紙をかくね。
もうあなたはあたしを忘れてるかな?それならそれでぜんぜんいいのよ。そのために、はなれたんだから。でも、もしあなたがまだあたしをさがしてくれているのなら…あなたって本当ばかね。
あなたを大好きになってくれる女の子をさがしてね。ずっとあなたを忘れないような女の子を。まちがっても、あたしみたいながんこものは、だめよ。
今あたしはとっても幸せ。だって、大好きな人にかこまれてるんだもの。だからあなたも大好きな人といっしょにすごしてしあわせになるんだよ。
じゃあね、さようなら。"
俺は確信した。
君との思い出を思い返す度に、ずっと疑問に思っていた事。
君は、…――病気を患っているんだね。
あの日、俺が一緒に病院へ付いて行けなかった日。
君は医師に、何もかもを忘れてしまう病気、そのことを告げられたんでしょう?
だから大学も辞めて…俺のプロポーズもうやむやにした。
君と結婚したら俺が可哀想だとでも思った?全てを忘れてしまうのに、ってそう思った?
…そんなのどうでも良いんだよ。
君さえ俺の傍にいてくれれば、俺はた誰よりも幸せになれるのだから。
俺は急いで車を発進させた。
車では、物凄く遠いけど…それでも、君を乗せて、もう一度この地に戻って来たかったから。
その道中、俺はパーキングエリアに車を止めて、電話をかけた。今この瞬間にも車を進めて早く梨紗に会いたい思いを抑えて電話したのは、
『…--はい、稲生です』
梨紗のお母さんだ。
『智君なの?…真浩!智君だよ、おいで!!!』
突然の電話にお母さんは吃驚していたけれど、梨紗の弟の真浩君を傍に呼んでスピーカーにしたらしかった。
『えぇ!?智君!?…智君久しぶり!! 』
動揺を隠せ切れないらしい真浩君。
二人の変わらない迎えてくれている感に涙が出そうだった。
ただ、梨紗の話を持ち出すと、二人は揃って暗くなった。
「梨紗から手紙が届いたんです」
『…っ…』
電話の向こう側でお母さんは息をのんだようだった。
『ごめんなさい…貴方がまだ梨紗を捜してくれていたとは思わなくて…
…もう梨紗を捜さないで…智君ももう幸せになって…』
お母さんは『ごめんなさい』と悲しい言葉を何度も繰り返す。
『そうだよ…母さんも俺も、智君が好きだから…智君は幸せになるべきなんだよ』
真浩君もそう言う。
幸せ…?
俺は梨紗が傍に居てくれる事が何よりも幸せなのに…
『もう梨紗は幸せよ。だって智君にこんなにも愛してもらったんだから…だから、智君も梨紗を忘れて幸せになって…?』
『そうだよ…智君も、もう責任感じる事ないんだよ?姉ちゃんもこんなに愛されたんだから、智君も誰かに愛されてよ』
二人の震えた声が俺の耳に届く。
「…責任なんかじゃないんだよ」
俺は電話越しだけど小さく微笑み、二人の気遣いに反発する言葉を、でもできる限り優しく吐き出した。
「俺は今でも梨紗を愛してる」
梨紗は"愛してもらった"でも"愛された"でもない。"愛してもらってる"、"愛されてる"、そう言ってほしい。
たった2年で愛がなくなるんなら、それは愛とは言わない。
俺はきっと、一生梨紗を愛し続けるのだろう。それは意図したものではなく、…そう、きっと俺と梨紗は生まれた時からそうなると決まっていたのだと思う。
「…だから、梨紗を忘れてなんて言わないでください。俺は必ず梨紗にもう一度会って、何度でも梨紗に愛してもらえるよう、梨紗を一生愛します」
決意を言葉に乗せた俺に、お母さんは優しく――梨紗と似た声で――『…また貴方に会えるのを楽しみに待っているわ』と言ってくれた。
その言葉で理解できた。
きっとお母さんと真浩君は梨紗の居場所を知っている。
それでも梨紗の病気のことがあるから俺を心配して、梨紗のことは忘れて他の道を歩んで欲しいと言っている。
梨紗は俺を覚えていないから。もしかしたら肉親である自分たちのことも覚えていないかもしれない。
その悲しさ、寂しさを知っているから、俺を気遣っている。
昔俺が家に遊びに行くといつも優しく迎えてくれたお母さんと俺を慕ってくれた真浩君を、俺だって支えてあげたい。
梨紗の家族は俺の家族も同然だから…
『…すぐ会いに行きます』
俺は、そんな決心に似た思いを胸に抱きながら電話を切り、梨紗のいるだろう街へ向かい車を発進したのだった。
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