第9話
分かっていたんだ、君が居なくなる事は。分かっていた、はっきりと……心の奥底では気が付いていた。
今朝見せてくれた笑顔も口付けも愛の言葉も、全部、俺へのものではなかった。
そう分かっていたけれど彼女を楽にしてあげれる言葉を俺は言わなかった。わざと、言わなかったんだ。
たった一言、『別れよう』と言ってあげれば彼女はこんな風に俺から離れていかなかっただろう。
その言葉が彼女も、…俺自身さえ救っていたのかもしれないのに。
俺はその選択肢を選ばなかったのだ。
希望を持っていたんだ。彼女がまた、前のように"俺"に愛を囁いてくれると。
だけど、それも、今となっては崩れ去ってしまった。
彼女がいなければ、偽りの愛の言葉も聞こえてこないのだ。
こうやって今実際に彼女が居なくなっていても、こんなに自分が冷静でいられるなんて思ってもいなかった。
大声で梨紗を呼びも、いつかのように慌てて探しに出たりも、何もせず、その場から動く事もできず、ただ、涙が静かに頬を伝っていた。
鈴木の元に帰ったのか、な……
頭の中では冷静にそう分析していて、"帰った"という言葉を使っている自分に気付いてまた涙した。
俺は胸にぽっかりと空いた大きな穴をどうする事もできず、空っぽのリビングにへたり込んで、ただただ泣き続けた。
悲しくて。
辛くて。
苦しくて。
いろんな想いが複雑に絡まる中、俺は初めて梨紗と話したあの大きな桜の木の下での事を思い出していた。
涙は枯れる事なく、次の朝を迎えた。
昨日絶望からへたり込んだ場所から寸分の違いもない場所で起きた俺は、身体の節々が痛むのを感じて、生きている事実を実感した。
立つ気力さえなくてリビングで夜を明かした事が、俺が生きている証を生んだのだ。
起きても傍に梨紗が居ないのなら、あのまま目が覚めなくても良かったのに。
この身体の痛みも胸の痛みも、全部、梨紗に捧げたものなのに。
来たままだったスーツはすっかり皺を刻んでいて、俺は小さな溜め息と共にネクタイを外しながらゆっくりと立ち上がった。
…会社になんて行く気がしない。
こんな事、社会で通用する筈がないけれど、だけど…今日だけは許してほしい。君を想って泣く事を。
泣き虫だと怒られてもいい、今日だけは、君を想って泣くよ。
明日からは…明日からはちゃんと会社にだって行くし、……君を忘れるよう、努力する。
だからどうか、今日だけは…
首元から抜き取ったネクタイを床にすとんと落とすと俺は会社に電話をし、休む旨を伝えた。
今まで休んだ事もないから夏風邪を引いたと言うと簡単に信じてくれて、心配までしてもらって俺はまた少し泣いてしまった。
ぽっかりと空いた胸に優しさは染みるんだ。
通話を切って携帯を閉じると、俺は涙で湿った顔を洗う為に洗面所へと向かった。
「…酷い顔」
自分ではないような顔を見て、鏡の前でそう呟いて小さく嘲笑。
瞼は腫れて、頬も涙の跡でぐちゃぐちゃで。
折角の男前が台無しだよ、と虚しさを紛らわす為に冗談を言っては笑えない自分に気付いてしまう。
梨紗が居ないのではこんな顔、あっても意味がない。
どれだけ顔が良くても……梨紗は戻っては来ないのだ。
こんな顔ではなく、梨紗の心を捕まえれる最高の性格が欲しかった。
俺が鈴木のような性格だったなら、梨紗は俺を好きになってくれただろうか。
そう考えてまたじわりと溢れた涙を隠すように、俺は顔を洗った。
ふとお風呂に入って全部を洗い流してさっぱりしたいと思ったけれど、お風呂場にも梨紗との思い出が一杯で。
結局入る事ができなかったのは、俺が弱いから。
梨紗との楽しかった日々を思い出すのは怖くて、…これ以上彼女を好きになってしまうのを恐れていたんだ。
瞼が重くて。寝れないだろうけど、とりあえず横になろうと思って寝室へ行った。
ベッドに倒れるように横になると、ふわりと小さく風が起こり、それと共にわき起こった梨紗の香りに悲しくなった。
どこに行っても、何をしても、梨紗を思い出す。
目を瞑れば、梨紗の可愛い笑顔が瞼の裏に鮮明に浮かぶのだ。
「梨、紗…」
呼んでみた声に返事はない。分かってはいた事実に胸が押し潰されそうだった。
今この家に梨紗が居たという事実を確かめられるのは寝具に移った彼女の香りだけとなった。
梨紗を傍に感じたくて求めるように抱き締めた彼女のお気に入りの枕。
ふと枕の裏に感じた異質の手触り。
「…ん?」
重い瞼を持ち上げて、枕を裏返したそこを見やる。
「…っ、」
…そこには枕とは明らかに違う、長方形のそれが存在を隠すように枕カバーの中へと入れられていた。
それが手紙だと瞬時に理解した俺は眠気も吹っ飛び、勢いよく枕カバーを外した。
「……、」
予想通りのそれを、はやる気持ちのままに取り出すと、急いで封筒を開けて綺麗に折り畳まれた紙を開く。
見慣れた梨紗の丁寧な文字に、早くも泣きそうになりながら視線で文字を追った。
智へ
ごめんね、本当にごめんなさい。何も言わず突然貴方から離れたあたしを許してください。
最初からあたしが貴方の傍に居たのが間違いだったんだよ。これ以上貴方に辛い思いをさせたくないから…あたしは行きます。
でもこれだけは信じて。あたしには智だけだし、智が大好きなんだよ。
あんな事があった後だから信じられないかもしれないけど、これがあたしの言える精一杯の言葉です。
本当にあたしは智だけだから、その事は信じてほしい。
智、愛してる。
梨紗
「…っ!」
俺は最後の言葉に胸を詰まらせた。何度も何度もその小さな文字を見返すけれど、何度読み返しても胸の苦しさは変わらなかった。
梨紗…俺、理解できないよ…
梨紗が言うように俺が馬鹿だからなのかな?だけど、本当に意味が分からないんだ。
梨紗の言葉を信じたいけれど、信じきれない自分がいるのだ。今この瞬間も鈴木の傍に居るんじゃないかって…
梨紗、ここに書いてある言葉が君の本心なのなら、戻ってきてくれ。俺の傍にずっといてくれ。
でないと俺はダメになってしまうから。
俺に辛い思いをさせたくなくて離れたのなら君は大きな勘違いをしている。
君が傍にいてくれない事の方がずっと辛いんだ。今だって、辛い。
君の笑顔を取り戻したいと思うのは、俺が自分勝手だからなの?
俺はリビングに行き、放っておいた携帯を手に取って、アドレス帳からある人物の名を探した。
『はーい?』
「…お母さん、御無沙汰してます、智です」
耳に宛てた冷たい機械から聞こえた懐かしくも優しい声に泣きそうになるのを堪える。
『智くん?どうしたの?』
梨紗のお母さんが不思議そうに言葉を紡いでいる後ろから、真浩くんの『智くんから?』という声が聞こえてきた。
「梨紗…そちらに帰ってますか?」
『あら、梨紗なら昨日帰って来たけれど……智くん家に戻ったんじゃないの?』
親にも何も言っていない梨紗に、やっぱりかと場違いにも梨紗らしいなと思ってしまった。
「…いえ。あの…梨紗、何しに帰りました?」
『家に置いてあった写真全部持って出たけど…』
お母さんの言葉に、やっぱり写真は実家に置いていたのだと知る。
でも、それを持ってどこに行ったのかは分からないまま。
『どうしたの?喧嘩でもした?』
「…ごめんなさい、お母さん…俺、」
『やだ、泣いてるの?あの子、頑固だから…』
「違うんです。…梨紗、家から出て行きました」
俺を信じて梨紗を任せてくれたのだからお母さんには本当の事を言わなければならないと思った。
最初にお母さんに電話をしたのは半分はそれが理由。もう半分は梨紗が実家に帰っているんじゃないかと言う期待から。
本当は梨紗の実家まで出向かわなければいけないのだろうけれど、臆病な俺は電話をするのが精一杯だった。
もうこの時点で俺は固く決意をしていた。彼女を、…梨紗を探す、と。
明日からは忘れるよう努力をしようと思っていたけれど、梨紗からの手紙を読んで気持ちは変わった。
梨紗の言葉を信じる事にしたのだ。
君が俺を好きだと言うのなら、俺はもう諦めたりしない。どんな手を使っても、君を探してみせる。
君が傍に居ないと俺は不安定になってしまうから。一人だと飛べない、片翼の小さな鳥なんだよ。
『出て行ったの?』
「どこに行ったか分からないんです…ただ、手紙だけが残っていて…」
ほら、もう涙が堪えられなくなってしまっている。
『泣かないで、智君。あの子我が道を行く子だから…きっと数日もすればけろっと帰ってくるわ。心配しないで』
「…違っ…、」
言葉にできず、ただ必死に首を振った。
電話なのだから首なんて振っても意味はないと分かっているけれど、嗚咽が邪魔をして声が出せないから何度も何度も首を振っていた。
そんな俺にお母さんは何かに気付いてくれたようだった。
宥めるように俺に優しく言葉を掛けてくれていたが、俺の耳には届かなかった。
「俺……梨紗が好きなんですっ…」
『分かっているわ、だってそうじゃなきゃあんな頑固者と2年も一緒に居られないもの』
わざと冗談混じりに言ってくれるお母さん。分かってくれていた事に胸が痛くなった。
信じてくれていたのに俺は梨紗を分かってあげられなかったのだ。
本当はお母さんだって心配している筈だ。それを隠して俺を安心させてくれようとしている。
こんなに優しく強い女性を俺は裏切ってしまった。
「…大好きなんです、梨紗以外はいらないんです」
『ふふっ…あの子が聞いたら泣いて喜ぶわよ』
「だから…捜します。俺、…何年掛かってでも梨紗を捜し出しますから、」
待っていてください。その言葉と同時に頭を下げた。
『ええ、お願いね。…信じてるわ』
優しく紡がれた声に胸が熱くなった。
絶対に俺は梨紗を……握り締めた拳は俺の決意を表していた。
「何か分かったら、連絡します」
そう言って電話を切ると、俺はすぐに梨紗を捜しにアパートを飛び出した。
きっともう既にどこにも居ない事は分かっていたけれど、家でじっとしておくだけなんてできなかった。
宛もなく走りながらまた携帯を耳にした。
梨紗…お願いだから、出てくれ。
そう祈って。何度も何度も掛け直した。
『…――もしもし』
電話を掛け続ける事に諦めかけていた頃、繋がった電話に走る足を止めた。
「梨紗…」
まだ一日しか経っていないのに酷く懐かしさと愛しさを感じて、やっぱり俺は梨紗が居ないとダメだなと改めて感じた。
『……、』
何も喋らずこちらの様子を窺っているような梨紗の、周りの音に暫く耳を研き澄ます。
どこかで聞いた事のあるアナウンスの声が小さく携帯から漏れて来たと同時に、そこが普段余り使う事のない駅だと分かった。
君はどこに行くつもりなの?
電車の発車を知らせる音が鳴り響いたが、俺は駅に向かって走る事はしないで、ただ、携帯に向かって耳を澄ませた。
俺はもう梨紗の隣に鈴木が居るなんてこれっぽちも思っていなくて、ただ、君に聞きたい事があったんだ。
俺は呟くように小さくその言葉を紡いだ。
「…もう俺は、いらない?」
『…っ!!』
俺の言葉に、電話の向こうから嗚咽が聞こえ出す。
きっと梨紗も俺をいらないどころか必要としている、と確信に似た思いが俺の胸を熱くした。
「俺は…梨紗なしじゃ生きてけないよ」
俺の瞳からは知らず、涙が零れた。
こんなに梨紗に惚れるなんて思ってもいなかった。こんなに人を愛す事が幸せで、苦しいなんて。それを教えてくれた梨紗が傍に居ないなんて絶対にあってはならないんだ。
「梨紗…俺、」
『や、止めて…』
俺の言葉を遮って、梨紗は拒絶の言葉を放った。その声は涙混じりで、小さな嗚咽に俺の胸は大袈裟なくらい鳴った。
梨紗…泣いてるの?
"梨紗が泣く時は、好きな男を想っている時"
喜んだのも束の間、梨紗から聞きたくない言葉が発せられる。
『もぅダメだよ…あたし』
「…なにがダメ…?」
『…智の傍には居れない…』
そして梨紗は本当に小さな声で呟いた。
『…別れて…』
「っ!」
その瞬間、心臓がはち切れそうな程苦しくなって、息さえもできずに頭が真っ白になった。
予想できた言葉なのに彼女から直接言われたという事実が俺を苦しめた。
必死に空気を吸って肺に酸素を送り込むが胸の苦しさは変わらなかった。
その言葉は酷く俺を突き離し、同時に彼女自身にも絶望を与えたのだ。
予想はできた言葉だったが、理解ができた訳じゃない。
だって、梨紗は泣いている。その事実だけであの言葉は梨紗の本心ではないと分かるのに。
どうしてこんな事になってしまったんだろう。俺達はこの間まで一緒に笑っていたのに…
嫌だよ…梨紗…。俺、梨紗がいないともうダメなんだ。
「…梨紗、梨紗……俺が何もないこの状態からいつか梨紗のもとに辿りつけたら…そしたら許してくれる?俺が梨紗の傍に居ることを許してくれる…?」
今すぐ戻ってくるようには言わない。きっと彼女の意思は固いだろうし、何故彼女がこうして俺から離れて行くのか分からないままの俺では戻ってきた所で同じ事を繰り返してしまうだろうから。
俺の言葉に梨紗の嗚咽が大きくなる。
『…だっ、ダメっ…許さない…だから捜さないで』
「…ううん、もう決めた。梨紗が嫌だって言っても、俺は梨紗を捜し続けるよ。それで見つけたら…もう絶対に離してやらないから。…梨紗がどんだけ泣いても離してなんかやらない」
『…っ…!』
俺の決心を聞いた瞬間、携帯から漏れる梨紗の嗚咽の声が小さくなっていくから、梨紗が電話を切ろうとしていると分かった。
梨紗が…俺と通じる最後の電話を切ろうとしてるんだ。
この先、きっと梨紗は俺の電話に出ない。そう悟った俺は、咄嗟に言った。ずっと伝えたかった言葉。だけど照れくさくて言えなかった言葉。
「梨紗、愛してる……」
その言葉が梨紗に届いたかは分からない。だけど言わなきゃいけないような気がしたんだ。
初めて言うこの言葉が君に届いていますように…
…――次の瞬間、携帯からは虚しい機械音が響いたのだった。
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