第8話
今年も夏がやってきた。
…と同時に、恒例の鈴木もやってきた訳なのだが。
蝉の鳴き声を聞きながら快適な冷房の中で仕事をする俺には夏休みなんてものはないのだけれど、あの後本当に大学を辞めた梨紗は毎日が休みになった。
だからといって何もしていない訳ではなく、毎日俺のお弁当を作ってくれるし家事も全てしてくれている。
過労で倒れられたりしたら大変だと『家事は分担して二人でしよう』と提案した俺に、梨紗は『できる事あったらしてね』と笑った。
けれど、俺が帰宅すればいつも家事は完璧で、掃除も洗濯も料理も、俺がする事は何もなかった。
「ずっと家に居て暇じゃない?」
「ううん、結構寝てるから。その為に学校辞めたしね」
その為とか言っているけれど、あそこまで家事を完璧にこなしていたら休めるものも休めないのではないだろうか。
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
この日もきちんと渡されたお弁当を鞄の中に潜ませ、
「うん、行ってきます。早く帰ってくるよ」
俺は梨紗に行ってきますのキスをしてからドアを開けた。
手を振る梨紗の笑顔を見て、俺も手を振りながら階段へと向かった。
アパートを出ると、今日も例外なく鈴木が立っていた。
ここのところ鈴木の姿を見ない日がない。
梨紗にしつこくしていないか、少し心配になる。
「…柏木さん。少し良いですか?」
いつもは話しかけてこないのに、鈴木は通り過ぎようとした俺を止めた。
それだけで嫌な気持ちになるのだが、俺はそれを隠して『何』と言った。
「梨紗は、…本当にここに居るんですか?」
本当は俺なんかに聞きたくなかったのだろう、鈴木は不本意だがという顔をしていた。
「毎日ここに立っていても、…まぁ、まだ3日目ですが、梨紗は1回も出て来た事がないんです」
「……」
なんだ。
梨紗が鈴木と鉢合わせをしていない事を知ると、少し拍子抜けしてほっと息を吐いた。
しかし3日目となると冷蔵庫が空っぽになっているのではないだろうか。
このままでは鈴木と梨紗が出会ってしまうかもしれない。
「…梨紗は大学を辞めて、一人暮らしを始めたよ…」
自分でも少し下手くそだったと思う。
だって俺は嘘が苦手なのだから、仕方がないではないか。
瞳をきょろきょろとさまよわせている様を見られては、きっとすぐに嘘だとバレてしまうだろう。
しかし鈴木は俺よりも一歩上をいくアホなのかもしれない。
「大学を辞めた?あんなに頑張って勉強してたのに…」
顔をしかめてぶつぶつと独り言を言う鈴木は、俺の挙動不審にも気付かなかったようだ。
ほっとしたのも束の間、俺は俺の知らない梨紗の事を言う鈴木に腹が立ってきた。
「…で、梨紗は今どこに住んでいるんですか?」
「言う訳ないでしょ。あんた本当にしつこいね。諦める事も必要だよ?」
別に梨紗じゃなくても言い寄る女の子はいっぱい居るでしょ、と。
意地悪を言った。
実際鈴木くらいの男なら、いくらでも女の子の方から近付いてくるだろう。
俺の言葉を聞いて、鈴木は初めて俺を侮蔑するような瞳で睨んだのだった。
「…貴方は愛している女性を簡単に諦められるんですか?僕には無理です。梨紗しか居ないんです。貴方も同じ気持ちだと思ってたのに…残念です」
こいつは俺に少なからず仲間意識を持っていたと言うのか。
吐き気がした。
「あんたの入る余地は全くないからさっさと諦めてって言ってんの。もう俺達の邪魔をしないでよ」
「……」
「ここに立ってるだけなら凄い無駄な時間だよ。梨紗はここにはもう居ない。帰って就活でもすれば?」
あんなに苦手だと思っていた嘘が、自分でも吃驚するくらいすらっと出ていた。
「俺が帰って来た時にまだいるようなら、もう通報する」
俺は未だ睨んでくる鈴木を一瞥して、止めていた足を再び前へと動かした。
これで鈴木も諦めてくれればいいのだけれど。
帰宅時に鈴木が居ない事を願って、俺は仕事に励んだのだった。
その思いが報われたのか、俺が仕事を終えアパートへと帰った時、そこに鈴木の姿は見られなかった。
よかった、やっと諦めてくれたのかな。
それとも架空の梨紗のアパートでも探しているのかな。
どちらにしろ居ないという事にほっとして、軽い足取りで俺は部屋のドアに鍵を差し込む。
その時、ガタッと中で椅子が倒れる音が聞こえたと思えば、
「…――え?裏切ったのはあたし、って…?」
続いて梨紗の困惑した声が聞こえた。
「怒ったことは謝るわ。あの時、怒ったまま離れてしまった事……ずっと後悔してたの」
一体梨紗は何を言っているのだ。
「あたしを捨てるの?」
誰か部屋にいるのか?
窺うようにゆっくりと鍵を回した俺は、この後、梨紗の信じられない言葉を聞く事になる。
「…――鈴木くん、私は貴方が好きなのよ」
「…っ!!」
な、にを……
真っ白になった頭で、俺は急いでドアノブを回した。
何を、言ってるの、梨紗。
君の言った事が理解できないよ。
しかしどれだけ押してもドアが開く事はなかった。
いつも俺が出たら鍵を閉めるよう言ってあるのに。
もう一度鍵を差し込もうとするが上手くいかない。
焦ってしまうこの状況がもどかしかった。
掛けられていなかったらしい鍵を差し込み終えると再び回して、ガチャという音が聞こえるとまたドアノブを回す。
「梨紗…!」
開いたドアの先では、
「…梨紗、やっぱり今でも僕を想っていてくれてたんだね」
鈴木が梨紗の手を握って微笑んでいた。
「僕達…4年前みたいに戻れるかな」
「4年前?…あたし達が出会う前に?」
「え…?」
恋人の距離まで侵入している鈴木に、
「…っ!!」
俺は一瞬何も考えられなくなっていた。
けれど身体は無意識に勝手に動いていて、鈴木の手を払い退けると梨紗を守るように後ろへとまわした。
後ろ手に梨紗の体温を確かめながら、目の前で状況を把握できていないらしい鈴木を睨む。
「…何勝手に人の家、入ってるの?警察呼ぶよ」
俺と梨紗だけの空間に、こいつが居るのが許せられなかった。
今すぐここから消えてほしいのに、鈴木は微動だにしない。
激しく痛む胸は何を思っているのか自分でも分からなかったけれど、鈴木がいなくなれば少しは緩和するのではないかと思った。
困惑の色を隠せない鈴木は俺の後ろ――梨紗をちらっと見ると、途端に余裕気な顔をしてその口を開いた。
「…梨紗が入れてくれたんですよ」
鈴木の顔の変化が気になり、何気なく俺も振り返って梨紗を見てみた。
すると。
「…っ!?」
梨紗は俺から少し離れて震えていたのだ。俺を見るその瞳は、俺の知っている梨紗のそれではなかった。
…なんで…
「貴方今朝梨紗と想い合ってるって言いましたよね。それ、貴方の勘違いみたいですよ。現に梨紗は今、俺とよりを戻したいと言いました」
「…違う」
「いいえ、事実です」
「違う、」
「梨紗は貴方が怖かっただけだ」
今の梨紗を見れば理解できるでしょう?
嫌だ、止めて…
そんなの、違う…
だって梨紗は俺を好きなんだから…
「梨紗、こっちにおいで」
梨紗を呼び掛ける鈴木が何故だかとても怖かった。
「やめろ!さっさと帰れよ!!」
必死で梨紗を引き寄せて、『嫌だ嫌だ』と抱き締める。
「…鈴木くん、助け…」
そんな俺の腕の中で、梨紗は怯えながら鈴木へ手を差し出したのだ。
「梨紗…ダメだよ…お願い、行かないで…」
俺は梨紗の手を遮り、抜け出そうする梨紗を必死に止めた。
止めて、何でなの?
何でこんな急に、…嫌だよ。
俺を好きだと言ったじゃないか。
「柏木さん、梨紗は僕のところに戻りたがっている」
「うるさいっ…帰れよ!」
「離してください」
「もう止めてよっ、…ここは俺と梨紗の家なんだ…」
流れてしまった涙を堪える術も分からなくて、必死に梨紗が離れていかないようにぎゅっと抱き締める。
もう本当に止めてほしい。
どうか俺達を放っておいてほしい。
どうしていつも邪魔をするの?
どうして俺達の幸せを壊そうとするの?
どうして、どうして……
梨紗を鈴木の所へ行かないようにしながら、鈴木を玄関まで押した。
「二度と梨紗に近付くなっ」
「柏木さっ…」
鈴木を外に押し出して、ドアを素早く閉め、鍵を掛けた。
「梨紗っ!!」
ドンドンと外からドアを叩く音が聞こえるが、そんなのはもうどうでもいい。
今すぐ梨紗と二人きりになりたかった。
俺は鈴木の声が聞こえないように、寝室まで梨紗を連れて行った。
「梨紗っ…」
真っ暗な部屋で電気も点けず、梨紗を抱き締める。
リビングの明かりが少し俺達を照らしていたが、どれだけ強く抱き締めても俺の心が晴れる事はなかった。
「梨紗、」
立っていられなくて、そのまま膝を床に付けてしまう。
それでも、立ったままの梨紗の腰にしがみつくように腕をまわした。
「…どうしたの?何でそんなに悲しそうな顔をしてるの?」
涙の溢れる瞳で見上げる俺の顔を、両手で包んだ梨紗の顔は、とても不思議そうで。
「何でって、梨紗…」
顔に添えられた手は温かくて、梨紗はちゃんと生きているのに。
「悲しまないで、
…――鈴木くん」
微笑んだ梨紗の瞳は人形のようだった。
「…え…?」
梨紗は腰を屈めて俺の頭を抱き締めてくれたのに、俺ではないその名を口にする。
ふわりと消えてしまいそうな優しい笑顔で俺を見つめてくれているのに、何故だか俺は怖くなってしまったのだ。
名前を間違えた事さえ気付いていないのか、それとも……
「鈴木君、本当にごめんね。連絡もしないでごめんね。…戻ってきてくれてありがとう」
「…っ」
「泣かないで…もう離れたりしないから。絶対離れたりしないから」
梨紗の諭すような声色とその身体から伝わる体温はとても暖かいのに、俺の心は氷のように冷たく固まってしまった。
もう離れないと抱き締めてくれているのに、その言葉と温もりは全て俺に向けられたものではないのだ。
…梨紗は鈴木を。
俺は何も言えず、ただ梨紗を抱き締めて涙を流す事しかできなかった。
次の朝、梨紗はいつものように笑顔でお弁当を渡してくれた。
俺の泣き腫らしたような瞼も気付かないように、ただ笑っていた。
「鈴木くん」
「…っ」
「大好きだよ」
もう離れないから。
頬にされたキスは、一体誰に宛てたものなのだろうか。
応える事ができないのは、俺がガキだからなの?
もっと大人なら、お返しに君の唇にキスをしたりできるの?
もう何がなんなのか分からなかった。
「行ってらっしゃい」
やはりいつもと変わらぬ笑顔で手を振った梨紗に、手を振り返す事もできず、俺は涙が溢れ出る前にドアを閉めた。
ドアを背にしながら、俺はまた一つ涙の筋を梨紗の唇の余韻が残る頬に伝えたのだった。
どこから間違ってしまったのだろう。
一体いつから君の心は俺から離れてしまっていたのだろう。
俺は俺なりに君を大事にしてきたのに。
君も俺を想ってくれているとばかり思っていた。
でも君が好きだったのは最初から鈴木だったのかな。
俺を鈴木と思ってしまうくらいに、…君は俺ではなく鈴木が好きなんだ。
君を壊してしまった。
君の笑顔を奪ってしまった。
君の瞳の光を殺してしまった。
悲しい苦しい辛い。
どんな言葉を並べても、今の俺の気持ちに勝る言葉はなかった。
あんなに幸せだったのに。
それさえも俺の思い違いだったのかもしれないのだ。
…――その日俺が帰ると、部屋に梨紗の姿はなかった。
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