第7話
「…遅い」
俺が少しイライラしながら時計に目をやると、それは午後9時を表していた。
もう9時じゃない!!学生がこんな時間まで何してるんだよ!!
他人に言わせればまだ9時なのかもしれないけれど、今までこんな事がなかっただけに少し苛ついてしまうのだ。
事の始まりは、俺が会社から帰ってきても梨紗に迎えられなかった、と言うよりその存在自体が確認できなかった事にある。
まぁ毎日俺三昧で飽きているのかもしれないけれど、……飽きて…
自分で言って、悲しくなる俺。
だけど、連絡くらい寄越してもよさそうなものを。
梨紗がこんな時間まで帰ってこない事は初めてで、いつも俺が仕事から帰る頃には絶対居るのに。
「……」
それが9時半になった頃から怒りが心配に変わり、無意味に玄関辺りをうろちょろしていた。
しかしそんな事をしても梨紗が帰って来る訳もなく、俺はそこでようやく梨紗の携帯に電話を掛けてみる。
「出てよ出てよ出てよ」
呪いをかけるかの如く、ぶつぶつと呟きながら梨紗へと繋がる短縮ボタンを押して、携帯を耳に当てる、と。
…――プルルッ
「…って、梨紗の馬鹿!!」
近くから着信音が聞こえて、思わず声を荒げてしまう。
しかしその着信音はどこかこごもっていて小さな、…とにかく何かが変だった。
鳴らしたまま音の鳴る方へと進んでみると、俺はあり得ない所で梨紗の携帯を見つけたのだった。
「嘘でしょ…?」
思わず自分の目を疑ってしまう。
梨紗の白い携帯は、キッチンに置かれてある使用済みのコップの中に、水と共に入っていた。
俺は通話を切って、その携帯をゆっくりと水の中から出した。
なんて生命力の強い…、なんて違う観点に集中して、その事実に気付かないフリをした。
心配し過ぎて胸がはち切れそうだった。
俺は急いでアパートを出て梨紗を捜した。
梨紗、どこに居るの?
どうして帰ってこないの?
何か…危険な目にあってるの?
走って梨紗を探す。
携帯が繋がらない今、梨紗を探すのを手伝ってくれるのは所々にある切れかけの街灯だけだった。
暗闇の中を、たった一つだけの光を求めて走り抜ける。
近所のスーパーを過ぎた辺りだったかな。
「…――智っ!!」
君の涙混じりの声が聞こえたんだ。
その声に振り向くと、流してはいないものの梨紗は瞳に涙を溜めていて。
俺だと確信すると、走って来た。
俺も走って、二人が出会った所で飛び付いてきた梨紗を強く強く抱き締めた。
「梨紗っ…」
何かとても悲しくなってきて、俺まで涙が出そうなのを必死で堪えていた。
何故だか分からないけれど、君がとても心配なのだ。
心が落ち着いてきた頃、二人で手を繋いでアパートまで戻った。
長方形の玄関に靴を並べて、そのまま梨紗の手を引いてリビングへと続く廊下を歩く。
梨紗をソファに座らせると、俺は梨紗の前の床に
震えているかと思って握った梨紗の両手は、もう震えてなんていなかった。
「…梨紗。何があったの?」
上にある梨紗の顔を見上げると、梨紗はよく分からないと言うような顔をしていた。
「智は、
…――いつも歩いてる道が分からなくなる時ってある?」
「え…?」
「なんかね。家に帰る道が分からなくなったの」
梨紗は本当に不思議そうに話した。
思わず梨紗の手をぎゅっと握り締める。
それさえも梨紗は不思議に思っているようで、俺は何だかとても胸が苦しくなった。
梨紗の何かが…壊れている。
梨紗…君の体に何が起こってるんだ…
次の日、ちょうど仕事も学校も休みで、俺達は病院へと向かった。
何で来ているのか分からないらしい梨紗は、俺が何か病気を持ってるのかと勘違いるのか、不安そうに俺を見つめていた。
そんな梨紗の小さな手を、俺はずっと握り締めていた。
「稲生さーん、稲生梨紗さーん」
いきなり自分の名を呼ばれた梨紗は吃驚していたけれど、俺が立ち上がるのを見ると、ソファから腰を上げた。
「すいません、お兄さんは待合室で待っていてください」
「でも、」
「すぐに終わりますから」
看護師さんの言葉で、しぶしぶ俺は梨紗の手を離した。
俺を見る梨紗の不安を取り除くように、『行っておいで』と微笑んでやると、梨紗も釣られるようにぎこちなく微笑んで病室に入って行った。
俺は気になって気になって仕方がなくて、ずっと願うように両手を胸の前で組んでいた。
すぐ終わると言ったくせに、なかなか出てこない梨紗に、やはり何か病気でも患っているのだろうかと気が気ではなくなって、無意識に貧乏揺すりをしていた。
そんな落ち着かない俺に、看護師さんは優しく教えてくれた。
「妹さんは先生の質問に答えるだけだから、そんなに心配しないで」
そんなことを言ったくせに、梨紗は一応MRI検査とスキャン撮影をされたようだった。
「来週また来てください」
そう言われ、俺達は不安を残してアパートへと帰ったのだった。
途中スーパーで買ったお惣菜を机に広げ、二人でつついて食べる。
「やっぱりあたしの料理の方が美味しいね」
なんてふざけて笑う梨紗に、
「比べ物にならないよ」
俺も笑う。
お互い病院に行った事には触れず、何もなかったように振る舞った。
診査結果は来週。
どうしても最悪の場合を考えてしまう自分に、『大丈夫』だと言い聞かせる。
梨紗…きっと君は新しい生活にまだ慣れてないだけなんだよね?
疲れてるだけなんだよね?
「梨紗?」
「ん~?」
「もう寝よっか」
「え~、まだ9時だよ?」
「今日は早く寝て、明日どこか遠くにでも遊びに行こう」
微笑んだ俺に、梨紗は顔に満面の笑みを浮かべて喜んだ。
「梨紗、」
「…ん……」
隣で眠る梨紗を抱き寄せて、俺は願う。
どうか。
どうか俺から梨紗を奪わないでください。
もう二度と離れたくはない。
今日も明日もこれから先ずっと、元気で健康でいられますように。
俺は梨紗の額に口付けを落とした。
梨紗…疲れを癒したら、どこへでも君が望む所へ連れて行ってあげるよ。
だから、今はなるたけ身体を大事にして、いっぱい休んでね。
俺は梨紗を抱き締めたまま眠りについた。
次の日はドライブをした。
いろんな場所に行って、…だけど俺は君の体を気遣って夕方にはアパートに帰った。
「見て、智。この写真、良いように撮れてるでしょ?」
楽しそうに、撮った写真を見ている梨紗。
「あー、これ凄いブレてる」
カメラを見ながら、どう頑張っても何なのか分からないような写真は消していく。
一緒に暮らしていても尚、梨紗の撮った写真の行方は分からない。
だからきっと、実家にでも置いてるんだろうと思う。
「うわぁ、これ凄く綺麗ね」
「見せて見せて」
「ほらっ」
楽しそうな梨紗を見て、俺も次第に口元が緩んでいった。
それからは大きな物忘れはなく、すっかり安心してしまっていた。
幸せな時間だけが俺を包み、…だからつい病院へ行くのを忘れていたのだ。
思い出したのは約束の日から2日後の事だった。
「梨紗、俺仕事があるから付いて行けれないけど……一人で大丈夫?」
本当にしくじった。
一緒に行って、診査結果を一緒に聞きたかったのに。
ただの疲れだよって、そんな診査結果を聞いて、安心したかったのに。
そんな俺を君は笑顔で見送ったね。
「そんなに心配しないでも大丈夫だよ。あたしだってもう大人なんだから。だから気にしないでお仕事頑張ってね」
君の声を背中に、俺は付いて行きたいのを我慢してしぶしぶ仕事へと向かったのだった。
うん、梨紗の言う通りだよね。
そんなに心配しなくても大丈夫。
きっとただの生活の変化からの過労なんだ。
いつも俺のために家事を頑張ってくれていたから…
今度からはできる事は自分でやって、少しでも梨紗の苦労を軽減させてあげよう。
そう決心して、俺は仕事を早々と終わらせた。
その日、俺は少し急ぎ気味にアパートへ帰った。
「お帰りなさい」
いつもの通り、笑顔の梨紗で迎えられる。
「ただいま」
その笑顔に少しほっとして、俺も笑顔でそう答えると、梨紗は満足気に俺に背を向けてキッチンへと戻った。
「梨紗、診…」
「待って、後にしてね。今、晩御飯作ってるから」
梨紗の言葉に、聞きたいのを我慢してソファに座る。
その後、梨紗の美味しい料理を食べて。
そんな幸せに…俺は一瞬診査結果の事を聞くのを忘れていた。
夕飯を食べた後、俺はソファに座って雑誌を読んでいた。
梨紗はソファの前の床に座って、背の低い机の上で折り紙をしていた。
1度、何を作っているのかと思って見てみると、それは綺麗な色とりどりの鶴だった。
梨紗は器用だな、なんてのんびりと考えた事を覚えている。
30分もすれば、梨紗は立ち上がってふらふらと歩き、何かを探すようにきょろきょろとその視線を泳がせた。
キッチンへ行き冷蔵庫を開けてみたかと思えば、寝室へ、トイレへ、と順に何をするでもないのに入っては出てくる。
不思議に思ってその行動を見ていると、梨紗はソファの上の俺を見ると、にっこりと笑って近寄って来た。
「…――智。どこに居たの?」
「……え?」
梨紗の笑顔に、いつもは安心する筈なのに、今は凍りつく程に身体は固まって、心臓は壊れるのではないかと思うくらいドキドキと鳴った。
もちろんそのドキドキが良い意味でない事は一目瞭然だった。
「梨、紗…?」
「あ、」
やっと紡げた言葉と同時に、梨紗の口からも小さな声が溢れた。
「…この鶴智が折ったの!?器用ね!!」
机の上に置いてあった鶴の折り紙を手に、梨紗は俺を見上げてその顔を緩めた。
「あ…」
そこでやっと俺はとっても大事な事を思い出したのだ。
「梨紗…診査結果は…?」
声が震えるのが分かる。
俺はなんて馬鹿なんだろう。
こんなに重大な事を忘れていた自分に腹が立ち、同時に情けなくも思う。
「え?あぁ、それね」
梨紗は思い出したように笑うと、
「ただの疲れだって!!」
ピースサインをその手に作って、俺を安心させてくれた。
俺は息をほっと吐き出すと、梨紗を抱き締めて『よかった』と囁いた。
心の奥底では疑惑の念が拭いきれていなかったけれど、俺自身それに気付く事はなくて、ただ梨紗の言葉に安心したんだ。
そうか、ただの疲れか…よかった。
病気とかではなくて本当によかった。
「じゃあ、早く疲れを癒さないとね。もう寝る?」
「うん…」
…俺はその時梨紗が顔を曇らせた事に気付かなかった。
腕の拘束を解いて梨紗の顔を見ると、にこりと笑ってくれた。
嫌がる梨紗と一緒にお風呂に入って、ベッドへと向かう。
背を向けて寝転ぶ梨紗を、俺は自分の胸へと抱き寄せた。
梨紗の背中と俺のお腹が隙間なくくっついていて、お互いの体温と心臓の音が心地良い。
「おやすみ」
もうすぐ大学は、俺達が出会ってから3回目の夏休みを迎えるね。
今回も鈴木は帰って来るのかな。
まぁ、もうあいつなんてどうでもいいのだけれど。
二人で無視して出掛けるまでだしね。
俺はお盆休みくらいしかないけれど、…それでも休日には二人きりでどこかに行こう。
君の行きたい所。
俺の行きたい所。
二人一緒ならどこでも楽しいだろうから。
どこでも。
どんな所でも。
一緒に思い出を増やしていこう。
そんな事を考えていた俺に、梨紗の小さな声が届く。
「…智、起きてる?」
「うん、起きてるよ?」
意味もなしにぎゅっと梨紗を抱き締めると、その腕に梨紗の小さな手が添えられた。
「あたし大学辞めようかな…」
「え、どうしたの?急に」
思わぬ話に驚き目を開いてみるが、俺の瞳には梨紗の後ろ頭しか映らない。
その向こうで梨紗がどんな顔をしているのかが、分からなかった。
梨紗がそんな事を考えていたなんてこれっぽっちも知らなくて、俺はまた自分の無能さに情けなくなってしまうのだった。
「んー、なんか疲れるし……ねぇ、家で洗濯とか掃除とかしてちゃダメ?」
梨紗がくるっと身体を反転させると、ようやく二人の視線が交わった。
俺の顔を窺うように下から俺を見上げてくる梨紗に、
「じゃあいっその事、俺のお嫁さんになる?」
俺はここぞとばかりにその言葉を口にした。
「…それはいい…」
俺の言葉に一瞬びくっと肩を震わせた梨紗は、視線を下に向けた。
うーん、まだ早かったか。
梨紗の背中にまわっている腕に力を込めて、片手でぽんぽんとそこをあやすように軽く叩いた。
「やっぱり大学は出ておいた方がいいのかな?」
再び視線を俺に戻した梨紗に、
「ま、どうせ俺のお嫁さんになるんだから、学歴なんて関係ないよ」
遠まわしに、辞めていいよ、と言う。
梨紗が真剣に悩んでいるのは分かっているけれど、俺だって超真剣なんだ。
そして、遠回しの2度目のプロポーズに、
「……」
「…なんか言ってよね」
何も反応しない梨紗に、そう促す。
額に口付けをすると、顎にキスをしてくれたから、プロポーズ自体が嫌なのではないようだけれど。
「…うん。…トイレ行ってくる」
梨紗は言葉を濁すと俺の腕からすり抜け、逃げるようにトイレへと向かった。
そんな梨紗の後ろ姿を見送ると、何気にプロポーズを濁されたショックを少し受けていた俺はふて寝を始めたのだった。
…――ごめんね、梨紗。
この時、君はトイレで泣いていたんだね。
ふて寝なんてせず、何もなかったように戻ってきた君をぎゅっと強く抱き締めてあげられればよかったんだ。
気付いてあげられなくて、君の苦しさを分かってあげられなくて、君の上辺だけの〝大丈夫”だけを俺は信じてしまっていて。
…本当に俺は馬鹿でガキだった。
君を抱き締めてあげられる腕を持っているのに、本当に必要な時にそれを使わないなんて。
俺がもっと大人だったらよかったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます