第5話
季節は秋に変わっていた。
蝉の鳴き声なんて疾うに聞く事もなくなっていて、今は代わりに秋の虫コオロギの鳴き声が大学に響いていた。
「あ、智おはよ~」
「おはよ、先輩」
少し冷たい風を頬に受け止めながら大学の門を入ると、長い髪を靡かせた先輩が俺の隣に寄ってきた。
「智、本当にもうウチ遊びに来ないの?」
「うん、梨紗いるし」
「…そう。篤美も寂しがってるよ」
二人並んで校舎まで続く広い道路の脇を進む。
「俺も篤美ちゃんに会いたいな」
「ならウチ来なよ」
「それはダメ」
あはと笑った俺に、拗ねたように先輩は唇を尖らせた。
俺が梨紗と付き合っているのは、誰にも言った事はないのだけれど、周知の事実のようだった。
まぁあれだけ一緒にいれば、その事実は言っているも同然なのだろうが。
先輩に言わせると、俺がちゃんと梨紗を想っている事は周囲も了承済みだそうだ。
だからなのかそれは関係ないのかは俺には分からないのだけれど、前みたいに俺が歩くだけで聞こえてきた黄色い声は耳にしないようになっていた。
梨紗がいる今そんな事はどうでもいいのだが、一昔前なら二晩寝込む程のショックは受けていただろう。
そうした中、変わらず声を掛けてくれる先輩はやはり相変わらずスキンシップもよく取るようで、今だって腕に絡まった先輩の腕をどうしようかと俺は悩んでいる訳なのだが。
梨紗に見られたらまずい、と言うより嫌だと思っている俺は、相当梨紗に入れ込んでいると思う。
それは自他共に認める事実だ。
だから、
「先輩、梨紗が、」
「ああ、そうね」
やんわりと腕を退けようとすると、むこうからするっとその腕を離してくれる。
そんな風に、先輩だけが話し掛けてくれると言ったら、それはまた違う。
もちろん挨拶はされるし人気者なのは変わらないし、俺が通ればこそっと『格好良いね』なんて言っているのも知っている。
ただ堂々と騒いでくれなくなっただけで、その事に喜びを感じていた俺としては少し寂しさもあるのだが、仕様がないと言えば仕様がない。
梨紗も傍にいてくれているし、その事は諦めている。
昼、俺は梨紗とテラスで待ち合わせてご飯を一緒に食べていた。
嫌いな野菜を避けて食べる俺に、梨紗は『好き嫌いしちゃダメ』と叱り、泣く泣く食べれば『偉い』と褒めてくれる。
梨紗は俺の扱い方をよく分かっているようで、だから俺は梨紗に逆らえない。
どうやら自分でも知らなかったのだが俺は尻に敷かれるタイプのようだ。
その後はお互いの講義が始まるまで、秘密の場所でまったりと過ごす。
秘密の場所とは、昔何故か非常勤の女講師が俺にくれた鍵で入れる、使われていない更衣室。
その女講師はその後寿退職し、梨紗と付き合ってから『二人きりになりたい』と、思い出した更衣室の存在。
埃を被っていて汚かった更衣室も梨紗と二人で掃除して、寝転がれるように膝掛けまで常備した。
完璧に二人だけの秘密の場所。
「梨紗ー」
「んー?」
梨紗の膝に頭を置いて甘えたり、昼はこうして幸せな時間を過ごすのが俺達の日常だった。
…――そんな幸せな日常を壊したのは、他でもなく俺のせいだった。
もうコートなしでは出掛けられなくなった冬。
初雪が降ったその日、俺は先輩に告白された。
「ずっと好きだったの」
先輩の真剣な瞳に、今まで全くそういう予感もしていなかった俺は相当驚いた。
もちろん梨紗が大好きな俺はその告白をはっきりと断ったのだが、『せめて篤美の誕プレ買うのに付いて来てほしい』というお願いは断れ切れなかった。
と言うより、泣き顔の女の子に懇願されては男として断れない。
それはただの言い訳になるのかもしれないけれど。
『今から』と言われ俺が梨紗に報告しようと携帯を手に取ると、先輩は『連絡しないで』と俺の手を止めた。
「言わなければ分かんないよ」
「でも、」
「変な誤解して不安がられるより良いと思うけど」
「……」
「早く行って早く帰れば大丈夫」
「……うん」
必死に俺を止める先輩に、決して本人には言えないけれど、同情心が芽生えてしまって。
俺がこくんと頷くと先輩は嬉しそうにその顔を明るくさせた。
これからの講義をサボって梨紗と一緒に帰る時間までに大学に戻ってくれば良いや、と俺は妥協して、そのまま先輩に腕を引かれながら街へと出た。
今月の25日の大イベントに向けてか、どのお店も賑やかに色飾ってあった。
「ねぇ、智~。これ可愛くな~い?」
先輩が俺の腕にその厚手のコートに包まれた腕を絡めながら、リボンの付けられたクマの人形を手に取った。
「うん可愛い」
「ね。これにしようかな~」
でもあっちのもいいよね、なんてぶつぶつと考え出した先輩に、申し訳ないとは思ったけれど、
「ごめん、先輩」
と、俺は先輩の腕の拘束を解いた。
「あ…」
一瞬哀しそうな顔をした先輩だったけれど、
「うん、やっぱりあっちのうさちゃんにしようかな!」
なんて、何もなかったように俺の前を歩き出した。
篤美ちゃんへのプレゼントを無事買い終えてお店を出た頃には、空が紺色に帯びていた。
「早いね、暗くなるの」
白い息を吐きながら、先輩と並んでクリスマスソングの響く賑やかな街を歩いた。
梨紗の講義が終わるまで後1時間はあった。
よかった、間に合いそう。
梨紗の事を考えて少し早歩きになった俺に先輩が寂しそうに微笑んだのは、全然気が付かなかった。
そんな時だった。
ピロリーン
梨紗からの着信音が響いたのは。
俺は無意識にもその場に立ち止まって、ポケットの中から震える携帯を取り出した。
「ごめん先輩、梨紗からだ」
不安気に俺を見上げた先輩に断って俺は携帯の通話ボタンを押した。
「梨紗?どうしたの?」
『……うん』
講義中ではないのかと心配した俺に、梨紗の小さな声が聞こえた。
「え、何かあった?大丈夫?」
その声が余りにも悲しそうで、一人で涙を流しているのではないかと焦って耳に当てた携帯をぎゅっと握る。
『……』
返事がないからもっと焦って、
「どこにいる?行くよ」
先輩がいる事も忘れて、そう言っていた。
はっ、と自分の失言に気付いて先輩を見ると、先輩は傷付いたように、けれどそれを悟られまいとしているように無表情で俺を見ていた。
「……」
しまった傷付けた…!
けれど梨紗と繋がっている今、何かを言う事もできなくて、俺ができるのは黙って見つめる事しかなくて。
そんな俺に、
『智、……今どこにいるの…?』
梨紗の小さな小さな呟きが届いた。
必死にその小さな声を聞き逃さまいと携帯を耳に押し付ける。
「梨紗、ごめんっ。俺先輩と…」
やはり梨紗に隠し事なんてできなくて、正直に伝えようとした俺は、
「…ダメッ…」
小さな声を漏らして抱き着いてきた先輩に驚いて携帯を落としてしまった。
咄嗟の事に何がなんだか分からなくて、ぎゅっと抱き締めてくる先輩を引き離す事もできずにされるがままだった。
しばらくそうした後、やっと現状を理解できた俺が先輩を離そうとすると、
「せんっ…」
俺がその身体を引き離すよりも早く先輩は動いた。
先輩は俺から離れると、落ちていた俺の携帯を拾ってくれた。
「あ、ありがとう…」
唖然としながらも携帯を受け取って耳に当てるが、聞こえてきたのは虚しいツーツーという機械音。
「え…」
梨紗との通話が切れている。
その事実に、先程の梨紗の様子からしても全然大丈夫ではないのが安易に理解できて、急いで掛け直した俺に、
「ごめんね、切っちゃった」
…――目の前で先輩が小さく微笑んだ。
耳に届く音は延々に機械音で、梨紗の声を俺に届けてくれる事はなかった。
どうしよう、どうしよう。
梨紗に会いに行かなくちゃ…!
何故だか分からないけれど、今すぐに梨紗に会って抱き締めなければならないと、心が強く感じていた。
ぼーと繋がらない携帯を見つめていた視線を大学のある方向へと向けると、
「ねぇ智~、あっちに可愛いお店あるん、」
「……っ!」
何もなかったように腕に添えられた先輩の手。
俺は無意識にも勢い良く振り払ってしまっていた。
「と、智…?」
「ごめん先輩、俺行くね」
驚いた表情を浮かべる先輩に、振り払ってしまった手を気遣うのも忘れて俺は大学に向けて走った。
「智!」
背中に先輩の叫び声がぶつかるが今は構っていられない。
無視して走り続けた俺だったが、
「ごめんね、智!…その子大学にはいないと思う!」
先輩のその言葉に足を止めざるをえなかった。
「え…」
ばっと振り返った先に、胸の前で俺が振り払った手をもう片方の手で包み込んでいる先輩が映った。
「私、嘘付いた…!」
10メートル程離れていて、周りには歩行者でいっぱいなのに、先輩は声を震わせながらも謝罪を口にした。
何が嘘なのか何に謝っているのか分からなくて立ち止まっていた俺に、先輩は小走りで近寄って来た。
「…え?」
「あの子、大学にはいない」
思わず疑問の声をあげた俺に、先輩は今度は確信的な言葉を吐いた。
「大学にいないって…」
「うん、いないよ絶対」
ふと溢れ落ちてしまった涙を指先で拭った先輩、俺には必死で平静を装うとしているように見えた。
「私嘘付いたから」
「え…何を…?」
「篤美の誕生日は春だし」
「え、」
「今日のこの時間に、智とこの辺を歩きたかっただけ」
「…何で…?」
困惑して質問しか投げ掛けれない俺に、先輩は涙を堪えて淡々と答えていく。
「あの子が今日の午後の講義サボってこの辺に来るって言ってるの聞いたから」
「何で…」
梨紗が授業をサボるなんて。
俺のその質問には、『そんな事、…自分で考えてよね』と先輩は教えてくれなかった。
考えても見つからないその答えを探し求めていると、
「意地悪したかったの」
思いがけない先輩のその言葉で俺は思考をストップさせた。
その時初めて俺からその視線を外した先輩。それはきっと罪悪感に苛まれてしまったからだと思う。
「…意地悪?」
「そう…。みんな智が大好きなのに、あの子が独り占めするから…」
そう言った先輩に、俺は怒りよりも何よりも、悲しくなった。
「違うよ」
悲しく歪んだ俺の顔を見た先輩も、その表情を歪める。
「俺が梨紗から離れたくないだけだ」
悲しくて、そういう風に思われていた事が悔しくて。
「俺が梨紗と一緒にいられると幸せだから、」
梨紗は何も悪くないのに。
「独り占めしてるのは俺の方だよ」
つい熱くなり過ぎてしまった俺に、先輩は「ごめん…」とゆっくり視線を下げた。
「俺もごめんね。先輩は何も悪くないよ、悪いのは全部俺だから…」
だから、ごめんなさい。
頭を下げた俺に、もう涙を隠す事もしないで先輩は「好き」「行かないで」と
着いた先は梨紗の家で、俺は乱れる息を吐きながらインターホンをゆっくりと押した。
家に帰って来ているのか分からなかったけれど、大学ではないのなら、俺にはここしか浮かばなかった。
肩で息をする俺に、インターホン越しに梨紗のお母さんの声が聞こえ、しばらくした後、ガチャとその扉が開かれた。
「梨紗は部屋にいるから」
と通された玄関を抜けて、俺は梨紗の部屋の前へと着くと足を止めた。
「梨紗」
「……」
名前を呼んでみるが返事はない。
「入るよ」
「……」
くるっとドアノブを回せば、鍵は掛けられていなかったようで、ドアは難無く開いた。
「梨紗?」
電気も点けていない部屋へと足を踏み入れると、ドアの横のスイッチを押して電気を点けた。
パチッと明るくなった部屋の端のベッドの上で丸くなっているその存在を確かめると、俺はドアを閉めてそこに近寄った。
「梨紗」
「……ょ」
固められた布団を少しだけ捲ってみると、泣きはらしたような瞼を持った梨紗と視線が合った。
「泣いたの?」
少し驚いて声を出してしまうも、内心不謹慎にも嬉しさが滲み出て、思わず笑みが溢れてしまった。
「…何笑ってんのよ」
「うん、ごめん」
すぐに真顔に戻そうと努力してみるも、嬉しくて嬉しくて、勝手に頬がにやけてしまうのだ。
梨紗が俺のために泣いていてくれる。
その事実が嬉しくて堪らないのだ。
「いいわよ、笑いたいなら笑いなさいよ」
「…梨紗?」
「どうせあたしだけ智が好きなの、よ…」
「梨紗、」
「…早くあの人のところに行っちゃえ」
「梨紗!」
思わず声を荒げた俺に、梨紗はびくっと身体を震わせた。
梨紗が言っている事は分かる。
梨紗が、俺と先輩がいたあの場面を見ていたのなら勘違いするのも無理ない。
だけど、
「…本当にそう思ってるの?」
嫉妬でも、梨紗にそんな事言われたくなかった。
他の人のところへ行けだなんて、本当は思っていないくせに。
「行っちゃっていいの?」
だったら何故君は泣いているのだ。
「……」
何も言わない梨紗に、
「…分かった、じゃあ行く」
引き留めて欲しくて言った最後の賭け。
ベッドから腰を上げた俺は、
「…っ」
慌てて上半身を起こして俺の腕を引っ張った梨紗によって、引き留められた。
「梨、」
「行ってもいいなんて思ってる訳ないでしょ馬鹿!」
涙を流しながら怒る梨紗は、俺の腕をそのまま引っ張って、俺が行ってしまわないようにと、そこにしがみついた。
「だけど智がっ、…智がっあの人の事を好きになっちゃったなら諦めようって!」
「……」
「智がっ、智が……」
「梨紗…」
「…嫌だよぉ何で?何で智はあたしの事好きじゃなくなっちゃったの?あたしはこんなに貴方の事が好きなのに…」
最後の方はもう涙だけで、俺の腕にしがみついたまま梨紗は泣いていた。
梨紗がそんなにも俺の事を想っていてくれていたなんて。
いつも好きなのは俺ばかりだと思っていたから、俺までも泣けてきてしまった。
「梨紗、」
「嫌よ、離さないんだから」
「違う。そのままでいいから聞いて?」
「……」
断固として俺を見ない梨紗が愛しくて、その涙の一滴まで愛し過ぎて、
「好きだ」
俺は梨紗を自由にできる片手だけで抱き締めた。
「俺は梨紗が好きだよ」
「……」
「梨紗だけが大好きだ」
『信じてくれる?』と言った俺に、梨紗は掴んでいた俺の腕の拘束を解いて、そのまま両腕を俺の首にまわして抱き締め返してくれた。
「もうっ、ダ…ダメかと思っ、」
「うん、ごめん」
「智が、女の人と歩いてるの見てっ」
「うん、ごめん」
「あ、あたしは内緒で智のクリスマスのプレゼント買いに行ってたのに、」
「そうなの?」
「あたしばっかり智が好きなのかって、」
「梨紗」
俺の肩に顔を埋める梨紗を少し引き離して視線を合わせる。
可哀想に、綺麗な瞳が真っ赤に充血してしまっている。
腫れた瞼にキスを落とし、
「俺だって梨紗が大好きだよ」
照れてしまった赤い顔を隠すように、梨紗の真っ赤な唇に口付けをした。
「クリスマス、一緒にいたいんだけど」
ダメ?、そう言った俺に今度は梨紗からキスをしてくれたのだ。
もうプレゼントなんていらない。
今のキス以上に素敵なプレゼントがあるだろうか。
最高の余韻を残して、俺達はお互いの気持ちを再認識する事ができたのだった。
その2週間後のクリスマス。
…――俺達が会う事はなかった。
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