第4話

それからの梨紗は人が変ったように感情の起伏が人並みの甘えん坊になった。


それが元々からなのか俺と付き合ってからなのか分からないけれど、俺はそんな梨紗がもう可愛くて可愛くて、どんどん梨紗を好きになっていった。



梨紗の笑った顔も拗ねた顔も。


意地悪な顔も泣いた顔も。


相変わらず物忘れが激しいところも。



全てが愛しかった。




写真を撮る事が趣味なのかいつもカメラを鞄に仕込ませていて、普段の何気ない時からデートの時も、たくさんの写真を撮っていた。



「最近、智の写真ばっかりだよ~」


「いいじゃん、もっと写して?」


もっと君の心に俺を刻みたいんだ。



目を瞑ればいつも俺が浮かぶような、それくらい君の脳裏に俺を焼き付けたい。


もちろん俺も君の姿を、声を、全てをこの胸に大切にしまっているよ。






君と付き合い始めて2カ月くらい経った頃だろうか。



…――君は男に付き纏われるようになったね。






俺が初めてその男を見たのは、何度目かのデートの時だった。



夏休みに入るとすぐ、梨紗の希望で俺達は水族館デートを行った。


いろんな魚を見て回って、もちろんアシカショーも見た。


器用にボールを扱うアシカを、二人で『凄い凄い』と感心したように手を叩いた。



館内は撮影禁止だったけれど、それ以外の所では梨紗はたくさんの写真を撮っていた。



梨紗はずっと楽しそうに笑っていて、俺もそんな梨紗の顔を見たら嬉しくなって。


ずっとこんな時間が続けばいいなって思ったんだ。


こんな幸せであっていいのかと恐しくなるくらい幸せだった。






「楽しかったね梨紗」


「ね」


「またいつか行きたいね」


「うん。アシカ可愛かっ…」


手を繋ぎながら家までの道のりを歩いている時、君は何かを見つけて言葉を詰まらせた。



驚いたように瞳を開けて前方を見つめる梨紗が、その足を止めるから必然的に俺の足も止まった。



何…?


固まっている君から視線を前方へと移した瞬間、



「梨紗っ!!」


俺ではない声が梨紗の名前を呼んだ。



俺の瞳に映るのは俺達に向かって信号の向こう側から走って来る男。


梨紗がびくっと反応したのが繋がる手から伝わってきた。



「…――久しぶり、梨紗」


傍まで寄った男は梨紗を酷く愛しそうな瞳で見ていて、俺は何がなんだか分からないけれど、嫌な気持ちになった。



男に怪訝な視線を向けるも、男はちらっと一瞬俺を見ただけですぐにその視線を梨紗に戻した。


ちゃらい感じもしないし、いたって清潔感の溢れる真面目そうな男。


梨紗の反応からも相手の態度からも、知り合いとだけは悟った。



「…何の用?」


つい耐えきれず口を挟んだが、男は俺に目を向ける事もしないで、梨紗ばかりを見ていた。



当の梨紗は気まずそうに視線をきょろきょろと忙しなく動かしていて、繋がる俺の手をぎゅっと強く握って俺の後ろに隠れるように少し移動した。


そんな梨紗を見て途端に男は瞳を陰らせた。



「梨紗、嘘だよな?あの時の言葉は…」


「止めてっ…!」


すかさず梨紗が男の言葉を遮る。



あの時の言葉って何…?


俺の疑問を他所に梨紗は俺の手をぎゅっと握りしめて、歩き出した。



突然引っ張られて、俺は吃驚しながらも黙って梨紗に付いて行った。



「梨紗!!」


「付いて来ないで!!言ったでしょ?あの言葉は嘘じゃない」


「梨紗…」


男に振り返りもせず強気に言った梨紗の言葉に、男は力なく梨紗の名前を呼んだ。



俺は二人の間に何かを感じた。


この状況が凄く嫌で、俺だけ話を理解していない疎外感もあって、…けれど梨紗にとって必要な話なのならばどう考えても邪魔なのは俺の方だ。



梨紗も俺がいるから気を遣って話さないようにしているのかもしれない。



「梨紗……いいの?あの人と話した方がいいんじゃないの?」


本当は嫌で嫌で仕方がないのに、梨紗に嫌われたくなくて、そう言った。



けれど、やはり心の底からそう思っていないからか出た俺の声はとても小さくて、幸か不幸かその言葉が梨紗に届く事はなく、梨紗は黙って俺を引っ張って歩き続けた。


そんな梨紗に、後ろにいる男は付いてくる様子はなかった。




しかし距離が随分開いた頃だろうか、



「…――梨紗!!俺は認めないからな!!まだ俺達は…」


男の叫ぶ声が背中にぶつかった。



だけどその時ちょうど車のクラクションが鳴って、肝心な所は俺には聞こえなかった。



まだ俺達は…何?


『俺達』なんて言葉はどこか親しい感じがして、…とても嫌な予感がした。



振り返っても男がいない事を確認した俺は、前をずしずしと歩き進める梨紗を引き止めた。



「梨紗、誰なの?あの人」


俺に続いて足を止めた梨紗はゆっくりと振り返って、俺を何とも言えない表情で見つめた。



「誰?」


強調するようにもう一度同じ言葉を投げ掛けた俺は、梨紗が何を言うのかもう想像は付いていたのに、



「……し」


「うん?」


「前の…――彼氏」


梨紗の小さな言葉は俺の頭に響いて離れなかった。



梨紗の元彼。



あいつが…


俺とは雰囲気的に正反対な誠実そうな男だった。



「…あ、あの時の言葉って…?」


自分でも分かるくらい酷く動揺してしまって、出た声は少し震えていた。



もうすっかりいつもの調子を取り戻した梨紗の、



「ゆっくり話したい」


の言葉で、とりあえず俺の家に帰る事になった。






もう既に何度か来た事のある梨紗は、小さくお邪魔しますと言って、俺の部屋に入った。


大して広くない部屋には、テレビとソファとベッドが大半を占めていた。



俺達はテレビの前にあるソファに並んで座った。


片足をソファに上げて梨紗の方に身体ごと向く俺に対して、梨紗は正面を向いて少し俯いている。



「あの時の言葉って、何…?」


俺が再び同じ言葉を浴びせると、梨紗は一度小さく頷いてから口を開いた。



高校で出会い、付き合っていた事。


同い年で、お互いが凄く好きだったと梨紗は言った。



受験勉強も二人でしていて、同じ大学に行こうと約束していたのだが、彼が梨紗に内緒で違う大学を受けた。


それがとても遠い大学で、内緒にされたのが悲しくて梨紗は怒ってしまったらしく、そのまま気まずさを残して、彼が遠い土地に行ってしまった。


ずっと連絡も来ず、梨紗も意地になってしなかった。



そこまでをゆっくり話すと、



「…だけどね、あたし智を好きになった時に電話したんだよ?別れてって…」


梨紗は自分の膝から俺の目元へと視線を寄越した。



俺が静かに梨紗を引き寄せると、胸にぽすんと全身を任せてくれて。俺はそのまま梨紗を強く抱き締めたんだ。


俺を傷つけないように言葉を選びながらゆっくりと話してくれた。それだけでも十分梨紗の気持ちは伝わって来たから。



「…今は、本当に智だけだから…」


「うん、分かってる。話してくれてありがとう」


梨紗が不安気に俺の背中に腕をまわしてくると、微かに震えているのが見て感じて取れた。



「き、嫌いにならないで…」


「大丈夫。俺が梨紗を嫌いになんてなる筈ないでしょ」


梨紗は何も悪くない。



俺と付き合う前にちゃんと別れると言ってくれたのだから。


今まで放っておいて今さら『別れていない』なんて言うあの男がいけないのだ。



だからそんなに怖がらないで…


俺は梨紗の震えが止まるまで、ずっと抱き締めていた。






――その日を境に、梨紗はあいつに付き纏われるようになった。


あの男に悩まされる日は少なくなかったけれど、その事がない限り、俺と梨紗の関係は順調だった。



梨紗はよく笑うし、俺もよく笑う。


梨紗が楽しそうにすれば俺も楽しいし、梨紗が嬉しそうにすれば俺も嬉しかった。



小中高校生より遅く始まる夏休みは長期的だから、梨紗と二人でどこへでもどこまででも行けれた。


もちろんどちらかの家でまったりと過ごす事もあるのだけれど、意外にも梨紗はアウトドア派らしく、基本は外出した。



とにかく思い付くがままに遊びに出掛けて、その先々で梨紗はその記憶を写真に納めていた。


一度もそれらの写真を俺に見せてくれる事はなかったけれど、梨紗が丁寧に取って置いてくれていると分かっているから、俺も何も言わなかった。






「智、今日はお母さんが晩御飯食べに来てって」


「お母さんが?」


「うん。来てくれる?」


「やった~、行く行く」


夏も終わりに近付いたある日の夕方、俺は夕食の招待を受けて梨紗の家に行く事になった。



デートの帰りに、自分の家ではなく梨紗の家へと向かう。


もう何度来たか分からない梨紗の家。



クリーム色の近代風な可愛い家の周りを茶色い煉瓦が囲っていて、甘えん坊でガーリーな梨紗にはぴったりの雰囲気だ。


門を抜ければ梨紗の母親の趣味の様々な種類の花が俺達を迎えてくれた。



「ただいま」


「お邪魔します」


奥に聞こえるように声を掛けると、すぐに奥の扉が開いて、とても二十歳の娘がいるようには見えない若々しいお母さんが出て来た。



「智くん待ってたのよ、さぁ上がってちょうだい」


「うん、俺もお母さんの手料理楽しみにしてたよ」


「今夜はね、お母さん智くんに会いたくて頑張っちゃった」


「うふふ」とウインクをしたお母さんに梨紗が「止めてよ、恥ずかしい」なんて言いながら、先にリビングへと入って行く俺達の後ろ姿に溜め息を吐いた。




自分で言うのは何なのだけれど、俺は梨紗の家族とは仲が良かった。


お母さんは俺を凄く歓迎してくれていて、よくこうして夕飯を御馳走してくれる。


お父さんは梨紗が小学生の時に他界したようで、梨紗はお母さんと弟の真浩くんとこの可愛らしい家で3人暮らしをしているのだ。



真浩くんは梨紗の二つ下で高校3年生。


初めて家にお邪魔した時には姉の彼氏が変わっていたからなのか俺を見て吃驚していたのだが、今では本当の兄のように慕ってくれている。



くだらない男のロマンを語り合って梨紗に呆れられたり、時には『姉ちゃんとどこまでしたの』なんてませた事を聞いて来たり。


俺と真浩くんはある種、彼女の弟、姉の彼氏、ではなく友達ような関係だった。



そんな梨紗の家は本当に温かくて居心地が良くて、俺はこの家族が大好きだった。




夕飯ができるまで、俺は梨紗の部屋で梨紗と寄り添ってまったりとした時間を過ごした。


梨紗の部屋には写真がある気配はしなくて、きっと物凄い量になっているだろうそれに少し好奇心が湧いてきて、今度探してみようかな、なんて思った。



「真浩ったら智の事毎日格好良いよねって言うのよ?」


「真浩くんは素直だね」


「…ナルシ」


持っていたクッションを抱き締めて冷たい視線を向けてきた梨紗に、



「梨紗は?格好良いって言ってくれないの?」


微笑みながらわざとそう言った。



「……」


「……」


黙る梨紗をじっと見ていれば、



「…心の中で思ってるからいいでしょ」


なんて、諦めたようにその口を尖らせた。



「梨紗、可愛い~」


思わず抱き締めてしまった俺の胸に黙って身体をあずける梨紗。



ダメだからね、梨紗。


その顔を見せるのは、俺だけだよ。他の男になんて見せないでね。



梨紗の肩に顔を埋めながら、心の中でそう呟いた。




その後、美味しい夕飯を御馳走になって、俺は家族に見送られながら梨紗の家を出た。



「気を付けて帰ってね」


「うん。また電話するね」


俺が門を出たのを確認すると、梨紗はドアを閉めた。




門を出た俺は、煉瓦の塀に背中をあずける男に気付いた。



「…貴方は、この間も梨紗の傍に居ましたよね?」


俺に気付いたそいつは敵愾心剥き出しで、けれど丁寧な言葉を怪訝な瞳を向ける俺に掛けた。



…毎日こんなストーカーみたいな真似をしているのか。


梨紗の家にまで来るなんて。



俺はそいつを少し睨みながらぶっきら棒に言葉を吐いた。



「…誰」


「あ、すみません。僕は梨紗の彼氏の鈴木です」


その言葉に俺の中でぷちっと何かが切れる音がして、



「は?」


嫌悪感を隠し切れず、無意識に眉間に皺が寄った。



そんな俺に構わず『貴方は梨紗とはどういった関係なのでしょう』なんて妙に善人ぶった話し方をする鈴木って男。


俺はあんたが大嫌いだ。



「…梨紗の彼氏の柏木だけど?」


一人熱くなった心を落ち着かせるように、冷静に言葉を漏らす。



「え!?…あぁ、梨紗は貴方の事を…」


ぶつぶつと独り言を呟き出した鈴木に、怒りよりも少し気味の悪さを感じた。



仮にも自分が梨紗の彼氏だと思っている奴が、何故そんなにも平然としていられるのか。


何を考えているのかさっぱり理解できず凝視する俺に、やっぱり男は平然と言った。



「梨紗は…まだ怒ってるんですね。勝手に違う大学を受験した事に」


違う。梨紗が怒っていたのはそんな事ではない。



相談されなかった事に怒っていたんだ。


そんな事も分からないのに梨紗を好きだなんてよく言う。



「貴方と付き合ってることは……きっと僕への腹いせでしょうね」


「…は?」


「別れてください。って言っても梨紗はもともと本気じゃないでしょうが」


「……」


「梨紗も僕も嫌いで離れた訳じゃありません。僕は現に梨紗をまだ想っています。この気持ちは梨紗も同じでしょう」


「……」


「梨紗はただちょっと僕を困らせたいだけなんです。貴方には悪いと思いますが、梨紗は返してもらいます」


…――黙って聞いていれば。



鈴木の気味の悪いくらいの余裕な態度は、そういう馬鹿な思いからだと分かった。



何言っちゃってるの?


梨紗があんたを好き?


自惚れもいい加減にしなよね。



返せ?


どの口がそれを言ってるんだよ。



疾うに愛想をつかれている事にも気付かないで、未だに梨紗と想い合っていると信じている鈴木が滑稽に思えて仕方がなかった。



「この前の梨紗の態度忘れちゃったの?あんた、全然相手にされてなかったでしょ」


「それは、まだ僕を怒ってるから…」


「梨紗はあんたより俺を選んだんだ。現にあの時梨紗は俺の手を取った」


「だからそれは…」


勘違いも甚だしい。今にあんたの言っている事が思い違いだと分からせてあげるよ。



「…あんた、梨紗が泣く時ってどういう時か知ってるよね?」


「……」


梨紗が泣く時。



それは意地悪を言われた時でも、ナイフを向けられた時でもない。


梨紗は……好きな男の事で泣くんだ。



唯一梨紗を泣かせられるのは、梨紗に想われている男だけなんだ。



「梨紗ね、俺の前で泣いたんだよ」


「…っ!!」


梨紗の事を本当に分かっているのなら、その一言で全てを理解してくれただろう。



「分かったならもう梨紗に近付かないでね」


目を見開き立ちつくす男に俺はとどめをさす。



「これ以上、梨紗に付き纏わないで」


男は信じられないと言うような顔で、ゆっくりと足を動かして帰って行った。



これで、終わり。


俺はその後ろ姿を確認する事もせず、帰路へつくのだった。






――しかし、その考えが甘かった事に俺はすぐ気付く事になる。






それからも、男は俺との会話なんて忘れてしまったかのように、変わらず、梨紗に付き纏ったのだ。



「梨紗!!目を覚ましてくれ!!俺は君を愛してるんだ!!」


前よりも過激になった男に、梨紗は悲しそうな表情で無視をしていた。



そんな状況に不安になってしまったのは、君ではなく俺だったよね。



鈴木の言った事が全て本当だったら…


そんな俺に、いつも君は優しく諭してくれた。



「智、大丈夫よ。あたしはもうあの人なんて想ってない。あたしには智だけだから。智だけが好きだから。だからそんなに不安にならないで…」


俺はただその言葉だけを信じた。



梨紗が俺を好きだと言うなら、俺はあいつの言葉なんて信じない。



ごめんね、梨紗。


君の方が辛い筈なのに、俺に付きっきりで気を遣わせてしまったよね。



あんな事でまいってしまう弱い彼氏でごめん。ガキでごめん。


これじゃ、どっちが年上なのか分からないよね。



こうして俺達に不安や哀しみを与えておいて、当の本人は休みが終われば何もなかったような顔をして居なくなるのだろうか。


俺達に付きまとう前のいつもの笑顔で、梨紗に相談もしないで決めた学校に帰るのだろうか。



…それでもいい。もうあの男の顔は見たくもなかった。


あの男が居なくなったら、君の行きたい所へどこへでも連れて行ってあげるよ。


二人でもっと濃い思い出を作ろう。






…――そして、予想していた通り、夏休みが終わると同時に鈴木は急にその姿を消したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る