けじめ
晴貴の家の前に着いた私は、鞄から携帯を取り出し、画面を開く。
泣き晴らした顔を上に向けて、晴貴の部屋の窓を真っ直ぐに見つめながら電話を掛けた。
『…はい』
「私、藍だけど」
『あぁ、…ちょっと待て』
私の低い声につられてか、晴貴の声も低かった。その言葉が聞こえると、見つめていた部屋のカーテンがすぐに開けられ晴貴の姿が見えた。
私が来る事を分かっていたのか、特に驚いた表情をするでもなく、晴貴は真っ直ぐ私を見ていた。
『鍵開いてるから、入ってこいよ』
「分かった」
私はそれだけ言うと電話を切り、晴貴の家のドアを開けて中に入った。
ここに来るのは初めてじゃない。
今まで芹と何度か来た事がある。…一人で、と言うのなら初めてだ。
一軒家の晴貴の家の中には、晴貴以外誰もいないようで静まりかえっていた。
私はそれでも一応『お邪魔します』と誰宛てでもなく声を掛け、奥にある階段を上がり晴貴の部屋を目指す。
ドアを開けたそこは、男らしいと言うか、何と言うか。いかにも男の部屋という感じの晴貴の部屋。
その中央で、晴貴は床に腰を下ろして座っていた。
「よっ」
「…よ」
「まぁ、座れよ」
「…うん」
晴貴の目の前に机越しに座ると、晴貴はクッションを投げて寄越した。
「わっ、…手渡ししてくれるとありがたかったのですが」
拗ねたように口を尖らせて晴貴に視線を寄せれば、当たり前のように視線が合った。
ふと頭に浮かんだ蒼の瞳を振り払うように、
「別れてきた」
早々とその事実を告げる。
自分から別れを告げたのに、それを言葉にすると胸の奥がどうしようもない程熱くなった。
けれど、『出てくるな』と必死で涙を呑み込んだ。
私はもう泣かない。
あの時の涙が、蒼を想う最後の涙なのだと決めたのだから。この涙は次に私が愛する人の為にとっておくんだ。
「…そうか」
晴貴が少し間をあけると、それだけを口にした。
どう言って慰めれば良いのか考えてくれんだろうけれど、結局は何も言わないのが最善だと判断したようだった。
「……」
「……」
暫くの沈黙。
クッションを抱き締めながらちらと晴貴を見ると、彼も彼で私を見ていたようで視線がぶつかる。
その瞬間思わず視線を逸らしてしまったのは私で、そんな私を彼は何も言わず見つめ続けていた。
私は視線を目の前のローテーブルに定め、小さく言葉を紡ぎ出した。
「今日ね、初めて蒼の口から『好き』って言葉を聞いたんだ」
「…うん」
「やっぱり本人から聞くと倍に辛いね」
「…え?」
「だから別れようって言ったの。…最後の賭けだったんだぁ」
あーあ、と言いながら天を仰いだのは、涙が出てきそうだったから。
客観的に話しているのに、どうしてなの。お願い、もうこれ以上蒼を苦しめたくないの。忘れさせてよ。
「『まだ芹が好き?』って聞いたら『うん好き』って、」
やっぱりあんなん聞いちゃうと別れるしかないよね?
笑って言おうと思ったその言葉は、晴貴の声に遮られた。
「…お前本当にそう言ったのか?」
今まで私が話す時にこんな風に口を挟んだ事のない晴貴が、初めて口を挟んだ。
「え?」
思わず聞き返した私に晴貴は淡々と言葉を吐き出す。
「本当に『芹が』って言ったのか?篠原は『芹が好き』って言ったのか?」
「え…」
「……」
「…な、なに…何が言いたいの…?」
「…俺、お前が好きだから、お前には幸せになって欲しいから、言うけど…」
…――あぁ、どうして晴貴はこんなにも親身になって話してくれるんだろう。
私は晴貴の気持ちには応えられなかったのに。私は好きな人の幸せを一番に考えてあげられなかったのに。
晴貴は私の幸せを一番に考えてくれているんだね。
ありがとう、晴貴。
『私も…晴貴が好きだよ』
あの時、私はそう言った。
『…だけど、恋とは違う…だろ?』
そんな私に晴貴は分かっていると言うように微笑んだ。
『うん。友達として。私は蒼しか考えられない』
『…うん』
言葉を濁すことなく言った私に、晴貴は視線を下げた。
その姿に、何故だか私の胸が切なく鳴った。可哀想だな、とそんなの思う事すら許されないのに思ってしまったんだ。
『…晴貴。私達さ…同じ一直線上にいるんだよ』
『あぁ、分かるかも、それ』
私の言っている事を分かると言ってくれて嬉しかった。きっと他の人には分からないと思っていた分、余計嬉しかった。
けれど、分かると言った晴貴は切なそうで。やっぱり私達は同じ立場にいるから、晴貴にも分かるんだと理解した。
『皆同じ方向を見てる。同じ方向しか、…見れない』
晴貴はそう言った。
見れない
そうかもしれない。
でもね、晴貴。
『…でもやっぱりいつかはさ、分かれ道が見えてきてその人の道とは違う道を進むんだよ』
蒼とは別の道を。
『まぁ、…でもやっぱりそのいつかは俺達にとってはまだまだ先の事だよな』
『うん、…でもけじめはつけようと思ってる』
晴貴の言った事は確かに真実だ。私が蒼を諦められるのは、きっとまだまだ先の事。
けれど、けじめはつけなきゃいけない。
『そうか、…言うのか?』
『うん、やっと』
やっと、言うよ。
さよなら、するよ。
けれどやっぱり最後まで抗う事は許して。
今まで聞きたくて、でも聞けなかった事、ちゃんと聞く。
『まだ芹が好き?』って。
私の最後の賭け。蒼の本当の気持ちを聞いて、この恋を終わらせたい。
それまでは、どうか好きでいさせて。
『頑張れ』
晴貴は一言そう言った。
『ありがと。私、晴貴がいてくれて良かった』
『ばーか、今更遅ぇよ。こんな良い男ふって後悔したって知らねぇぞ?』
あの時の晴貴の意地悪な表情は忘れられない。
あの表情の奥に隠れた優しさが、私に最後の言葉を言う勇気をくれた。
だから、晴貴に一番に言いたかった。『別れたよ』って。けじめつけた事を言いたかった。
それが私が晴貴にできるけじめだとも思った。
晴貴…晴貴の気持ちには応えられないけれど、恋愛感情ではないけれど、本当に貴方が好きだよ。
友達として。
親友として。
晴貴に会えてよかった。
あの時、他の誰でもなく晴貴に声を掛けて心から良かったと思うの。
すぐには無理だろうけど、いつか芹と3人で『あの時は』だなんて、笑い合えたらいいな。
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