最後の賭け
暑い陽射しが振りかかる今日は、夏休み中に1度だけある登校日だった。
学校側がどんな名目で夏休みに生徒を登校させるのかも知らないし、きっと知ったところで多分全生徒が牙を向くと思う。
そんな登校日は私達生徒にとっては憂鬱な日でしかないし、私だって例外ではない。
だって今日、私は――…
「ねぇ、」
今日もやっぱり蒼は窓の外を見てる。
蒼から2メートル程離れた所から同じように窓の外を覗くと、沢山の生徒が下校していて、…校門付近では航君を待っている芹の姿も確認できた。
いつも最後まで教室に残っている私達。教室にはもう私達の他に人の姿はなかった。
今日に限っては、二人っきりであることが全然嬉しくなかった。
「ねぇってば」
二人でいたって私は蒼の瞳を見る事さえできない。いつも哀しそうな横顔ばかり。
「蒼」
私の3度目の呼び掛けに、蒼は視線を教室に戻した。
「…ん?」
…――その顔は今まで見たどの顔より哀しそうに見えた。
限界、だと。顔がそれを物語ってる。
(あぁ、やっぱり)
私はこの人を私という呪縛から解放させてあげなきゃいけないんだ。
それが、最善の方法。蒼にとっても私にとっても、この関係を終わらせるのが一番良い。
机に座って私の方に身体ごと向けた蒼に、私はゆっくりと二人の間を埋めるように近付いた。
視線は合わないけれど、蒼がびくんと肩を揺らしたから、近付いていっている事は分かっているんだと思う。
何よ、私は近付く事さえ許されないの?
卑屈になってしまうけれど、足を止めてはやらない。
蒼の目の前まで迫った私に、蒼は少し身を引く素振りを見せたけれど、机に座っている状態だから大して離れる事はなかった。
「蒼、」
声が震えそうになるのを、強気な声を出す事で必死で耐えた。
「……」
声が返ってこないのはいつもの事なのに、ふいに泣きそうになったのを蒼の真白いシャツの裾を掴む事で我慢する。
それ程近くにいるのに貴方はどうせ私を見てないんでしょ。その答えを知るのが怖くて俯いて握った蒼のシャツばかりを見る。
「……」
蒼、貴方は私の手が震えている事に気付いてくれていますか?
「ねぇ、」
「…うん」
ようやく言葉が返ってきた事にさえ安心して無意識に涙の膜が瞳を覆う。
どうしよう、泣いちゃいそうだ。
瞼を閉じればすぐにでも涙が頬を伝いそうで、涙が溢れ落ちないように視線を上げた私は、
「……っ!」
予想もしなかったその深茶の瞳とぶつかり、小さな驚きを隠せなかった。
蒼が私を見ていた。偶然目が合った、とかではなく本当に視線が絡み合った。
そしてその瞳は、いくら私が凝視してもそらされる事はなかった。
…何故こんな時になって私を見るの?
私の態度にこれが最後だと気付いて『最後くらい』と慈悲に思って私を見てくれたのなら、そんな酷い事はない。
「……」
蒼の夢にまで見た綺麗な瞳が私をしっかり捕らえている。
(酷い人、)
こんなの。私は貴方を忘れられないじゃない。
初めてこんなに近くで絡み合った蒼の瞳はやっぱり哀しそうだったけれど、それでも胸の鼓動は止まらなかった。
蒼のシャツを掴む手とは逆の手で胸の辺りを押さえた。このまま放っておけば、治まらないんじゃないかって思う程心臓が暴れていたから。
逃げ出したい。
でも、言わなきゃいけない。
私は彼に聞かなきゃいけない。
悪足掻きくらいはさせて。
「…まだ、…が好き?」
蒼の瞳に吸い込まれるようにして出た言葉。今日は始めからこの言葉を問い掛けたかったの。
芹が、の部分は胸が詰まり過ぎてあまりに声が小さくなってしまったけれど。
最後の賭けだった。
この言葉に全てを、未来を、賭けた。
蒼が言葉を濁してくれたら、私はまだもう少し頑張れるかもしれない。
けれど、
「うん、…好き」
願いも虚しく、蒼ははっきりとそう言い切った。
瞳はそらされる事なく、けれど一瞬切なそうに歪んだ事に私は気付いた。
そんな顔で、そう断言されたら……私、もう頑張れないよ。
初めて蒼が言葉にした『好き』。
それはやっぱり私にじゃなく、芹にだった。この1年間私なりに蒼を振り向かせようと頑張ったけれど、どんなに努力してもやっぱり蒼が好きなのは芹なんだ。
(私じゃ、ない)
いくら私が頑張っても、芹には敵わない。いつだって蒼の胸中には彼女がいるのだ。
蒼はもう私には届かない所にいる。
どれだけ手を伸ばしても、その腕に触る事さえ許されない。
いつだったか、手を繋ぐことを拒否されたあの日から、今日までずっと彼の隣は空席のままだった。
蒼も私も、もう限界だ。
これ以上彼の傍にいるのはお互い辛いだけ。彼との未来を思っても、もう二人が泣いてるところしか想像ができない。
蒼が好きだ。大好きだ。
深茶の瞳も日本人離れした顔立ちも、薄い唇もそこから発せられる声も何もかも。
大好きだからこんなにも愛しくてこんなにも苦しいんだ。大好きだから涙が溢れるんだ。
もう泣きたくなんてない。一生分の涙をこの1年で流したような気がするから。蒼を想って泣くのはもう止めなきゃダメなんだ。それが彼を諦めるという事。
けれど、最後に……最後だけは見逃して。蒼の事で泣くのはこれが最後だから。
「蒼っ――、」
様々な感情と共に溢れ出した涙。
愛しい彼の名と共に初めて見せた涙に、蒼の瞳は困惑に揺れた。
「……あ、」
バシッ―――
蒼の小さな言葉を遮るようにして教室に響いた乾いた音。
「……、」
「お願い、触らないで…」
蒼の少し見開かれた瞳を小さく睨んだ。
優しくなんてしないで。貴方の事忘れられなくなるから。
どうか今は、優しくなんてしないで…
…――蒼のたどたどしく寄せられたその腕を振り払ったのは、私だった。
「蒼」
「……」
もう貴方が私に優しくしなければいけない義務なんてなくしてあげる。もう貴方を私から解放してあげる。
だから。
だから貴方は笑って。
芹との関係がどういう結末に終わろうと、私が望むのは貴方の幸せだけよ。
ようやく私のこの1年の片想いに決着を付ける時が来たんだ。
最後の最後まで足掻いてみたけれど、ダメだった。
こんな事になるなら最初からあんな卑怯な告白なんてするんじゃなかった。
大好きだよ、だから付き合ってください、とそんな簡単な言葉がどうして言えなかったんだろう。
今となっては言えない言葉。蒼を苦しめてきた私には、絶対言っちゃいけない言葉。
『好き』
その言葉は胸に押し殺し、私はゆっくりと掴んでいた彼のシャツを離していった。
私の手でグシャッと皺の立ったそこから、ゆっくりと決意に満ちた瞳を蒼に向けた。
「…――別れよう」
色んな想いを乗せて吐き出した言葉に、蒼の瞳が揺れた。
「もう無理だよ…、私達」
「……」
「別れて、お願い……」
懇願するように握り締めた拳に力を入れる。掌に爪が食い込んで痛かったけれど、そんな痛みは私が蒼に与えた痛みとは比にもならないんだ。
「……」
「……」
蒼はやっぱり私から視線を逸らさない。涙を流す私をどう思って見てるのか、その表情からは分からない。
悲しそうに切なそうに歪んだ顔で私を見つめる。
どうしてそんな顔をしているの?
沈黙に耐えられず俯くと、涙が頬を伝う事もなくそのまま床へと落ちていった。
「蒼…、」
私が彼の名を呼べるのもこれが最後なのだと思うと、寂しくて。何度も何度も口にした。
すると、
「…え……?」
俯いている私の手に突然水が落ちてきたのを、触覚と視覚で確認した私は驚いて視線を上げる。
だってこれは、私の涙じゃない。
そんな私の目に映ったのは、
「…そ、う…?」
悔しそうに唇を噛み締めて頬に涙を伝わせる蒼の姿。
涙の溢れる彼の瞳は、それでも私を捕らえて離さなかった。
(どう、して…?)
今度は私が困惑する番だった。
その涙は、私を想ってだと自惚れてもいいの…?
今私だけを見つめるその瞳を信じていいの…?
けれど、そんなのは間違いだとすぐに気付かされる。
「…蒼、」
「やっぱり俺、好きなんだ…」
「…っ」
「好きな奴がいるって分かってても、どうしても諦め切れない…」
「……」
「…ごめんな」
蒼は『しつこい男で、ごめん』と言うと、その顔を大きな両手で覆った。
溢れ続ける涙を鎮めようとするその姿は、私には好きな人を想って苦しんでいるように見えた。
…私、馬鹿だ。
一瞬でも自惚れたばかりに、またこんなにも傷付いている。
私と蒼は結ばれない運命なのかもしれない。どれ程心が嫌だと叫んでいても、私はそんな運命を受け入れなきゃいけないんだ。
「…ごめん、…ほんと、ごめん…」
最後なのに『ごめん』と謝ってばかりいる蒼。顔は隠されていて見えないけれど、きっとまだ泣いている。
女の私に涙を見せるのは絶対に嫌だろうに、それさえも我慢できないくらいに私は蒼を追い詰めてた。
そんな事も知らずに私は『私からは言えない』『蒼が言い出すまで傍にいよう』と、蒼が別れを切り出さない事を逆手に取ってた。
あぁ…なんて馬鹿なのだろう。
蒼が限界だと気付いていたのに、私は今まで何も言わなかった。
蒼が好きだから。大好きだから。
どんな事をしてでも傍にいたかった。
けれどそれじゃ、ダメなんだ。
私は涙を流す蒼から一歩離れて頬を伝う涙を腕でゴシゴシと拭った。
最後は笑顔で。そう決めたじゃない。泣いてなんていたら、蒼に失礼だもの。
無理矢理作った笑みは、自分でも相当不細工だったんじゃないかと思う。
それでも。蒼が私から視線を逸らさないから私も彼をじっと見つめた。
蒼、好きだよ…
大好きなのに、離れがたいのに。けれど、私が…私が言わなきゃ。
「…――バイバイ」
これで終わり、だ。
蒼、蒼。
大好きだよ。
いつか笑って蒼の事を話せるようになるのかな。大好きだった、に変わる日がくるのかな。
…そんなの考えられない。蒼がいない未来なんて、私は考えた事もないのだから。
けれど私は努力しなきゃいけない。蒼を忘れるための努力を。
それが1年以上も蒼を苦しめ続けてきた私自身への罰なんだ。
(蒼、本当に大好きなの…)
私は一人教室から逃げるように廊下を走りながら泣きじゃくっていた。
最後に見たのは蒼の瞳。いつも芹ばかり見ていたあの深茶の瞳。あの、…哀しそうな瞳。
あぁ、もう忘れられないじゃない。
どうして最後の最後で私を見てくれたのよ。今までみたいに逸らされていたなら、今私は貴方の瞳を思い出さなくて済んだのよ。
理不尽に蒼を責め立てるけれど、私の頭からあの深茶の瞳が消える事はなかった。
昇降口までの道のりを走りながら、想うのはやっぱり蒼ばかり。
誰もいない廊下を抜けて、誰もいない昇降口まで出る。
下駄箱を開けて脱いだ上履きとそこに入っていた靴を履き替えた。
もう蒼は私から解放された。
私も蒼から解放された。
最後に掴んでいた蒼の服の裾を、繋がってた関係を、離したのは私だった。
初めの頃、目が合うといつも逸らされていた彼の瞳は、いつの頃からか全く私を映さなくなった。
それでもふと優しく笑ってる時の顔とか、分かりにくい優しさとか、そういうところが大好きでどんどん好きになっていった。
今までの事が走馬灯のように頭を流れ、最後に浮かんだのは…――晴貴の顔だった。
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