涙の訳
高校2回目の夏休みが来た。
部活は無所属、趣味と言っても何も思い当たらない私は、夏休みなんて長期休暇は暇な時間を過ごして無意味で怠惰な生活を送るだけ。
でもそれは皆も同じ事。
だから必然と、夏休みは芹や晴貴と遊ぶ日が続く。連絡するのは私からだったり向こうからだったり。
芹にすぐ連絡がつかない時は晴貴を通して約束したりする事もある。だから男の人に連絡するのが緊張する訳じゃない。
ならば私が蒼に連絡できないのは、それ以外の何か別の理由があるからだ。
蒼から連絡が来ないのに私からなんて、とか。言って直接断られるのがとても怖いから、とか。
それ以前に今はお互いそんな事を言える雰囲気ではない。
だんだんと離れていく距離に私は抗う事さえできない。
今年も去年と同じで、夏休みはこのまま蒼と何一つ接触せず終えるのだろう。
去年の今頃は付き合い始めたばかりでまだ大きな希望を持ってた。私を好きにならせてやると意気込んでた。
だから1ヶ月以上も蒼と会えない事がとても嫌で、私から誘ってみた事もある。
それが唯一、私と蒼の間にあった所謂デートの誘いというやつなのだけれど、それとなく二人きりでのデートは嫌だと言われた記憶が昨日の事のように思い出せる。
凄くショックだった。だって私は蒼のその口から二人で会う事を拒否したのだから。
その年、私にとって蒼と会えない日々は全てが色を失ったように見えた。だから夏休みなんて早く終わればいいのに、とずっと思ってた。
だけど今年は、今は、夏休みがあって丁度良かったと思う。
心がやっと休める。
いい意味でのドキドキも、悪い意味でのドキドキも、しなくていいから。辛い思いをしなくていいから。蒼のあの横顔を見なくていいから。
…なんて。
蒼がいなくても充分私は蒼の事ばかり考えてる。
傍に常備させてある携帯を充電器から外し、無意味にパカパカと開閉してみる。
誰からの音沙汰もない今日この頃。
私はアドレス帳を開いてマ行から彼女の名を拾った。
『…もしもーし!こちら三澤芹、17歳でっす!』
いきなり聞こえた芹のテンションの高い声に驚きながらも、その声に逆に安心した。
芹と遊べば少しでもこの胸を占領する彼の存在を忘れられるかも。
「今日遊ぼ!」
芹のテンションにつられて私のテンションも上がる。
『イエース!遊びましょー!』
「芹ん家行っていい?」
『いいよ!わっくん居たりするけど気にしなくていいから!』
「あ、航君と遊んでた?日改めようか?」
『いいのいいの!居ない存在として扱ったらいいから!』
そう言った芹の奥で『こらこら』と航君の呆れた声が聞こえて、私はクスクス笑いながら「じゃあ晴貴も呼んで4人で遊ぼうか」と提案した。
『あ・・・そうだね!晴貴には私から連絡しとくよ!』
「分かった。じゃあ、後1時間くらいしたら芹ん家行くね」
通話を切ると携帯を枕の脇に置いてベッドを降り、その足でクローゼットに向かって服を選び始めた。
芹の事を憎いって思ってしまうけど、なんだかんだ私はやっぱり明るくて元気な芹に救われてるところもある。
幼い時から傍にいる事が当たり前だった大きな存在。
蒼と付き合う前はいつも一緒にいたのに、最近に至っては良い態度もしていなかった。
ふと今までの自分を振り返り後悔。八つ当たりだ、悪い事したななんて思ってある事を思い立つ。
(そうだ、きちんと謝ろう…!)
ならば晴貴が来る前にそれを実行したい。そう思った私は早めに芹の家に行く事にした。
芹には1時間後と言ったけれど、家族ぐるみで仲が良い私と芹の間にそんなマナーはいらない。
そう決意すれば後は行動するだけ。
私はすぐさま服を着替えて準備をすると、携帯を鞄に入れてから家を飛び出した。
(うん、良い天気!)
うーん、と人目も気にせず伸びをしながら芹の家までの道を歩く。
芹の家は近い。
保育園の頃から母親に連れられてよくお互いの家で遊んでいたから、この道ももう飽きる程見慣れてる。
お隣さん家を通り過ぎたら少し折れ曲がった街灯があって。曲がり角を右に曲がってコンビニを通り過ぎれば、突き当たりは大きい国道に繋がっている。
私はその一つ手前の角を左に曲がると、30メートル程先にある芹の家を捉えた。
その時。
「…っ……!」
私は一緒に見てはいけないモノを見つけてしまう。
「……なん、で」
何故なの…
今しがた見てしまった光景に思わず小さな声が漏れる。
嘘だ…こんなの、嘘。
そう信じてしまいたいけれど、私がその姿を見間違える訳がない。
(何故なの……蒼)
頭に浮かぶのは『何故』の2文字。
何故蒼がいるの?
何故蒼は芹の家を見ていたの?
何故蒼は芹の家のチャイムを押して、
何故蒼は…――芹の家に入って行ったの?
頭が回らない。
何も考えられない。
なのに今見た光景ばかりが何度も何度もフラッシュバックのように私を襲い、頭を支配する。
芹の家を見上げる蒼の緊張に歪んだ横顔。でも少し期待に満ちている横顔。
1度大きく息を吸ってからチャイムを押していた。その指が少し震えてる事にまで気付いてしまった。
その後インターホンに一言二言喋って、門を抜けて芹の家に消えていった蒼の姿。
もうすでにそこにはいない蒼の残像が私を見てうすら笑ってる。
彼が蔑んだ視線を私に送る。私の大好きな深茶の瞳を歪ませて。口元には馬鹿にした笑み。
そして言うんだ。
『そういう事』
…その瞬間、蒼の残像は目の前からぱっと散っていった。
ようやく現状を理解できた頭は、コンマ数秒の世界でくるりと働き出す。
蒼、貴方は私を騙していたのね。
酷く滑稽な私をそうして芹と二人でせせら笑っていたのね。
信じてたのに。信じたいのに。もう信じられない。彼の一挙一動が私を狂わせた。
…嫌い!
蒼も芹も大嫌い!
嫌い!嫌い!嫌い!
頭の中では二人を罵る言葉だけが飛び交う。なのに実際出てくるのは……悲しい涙ばかりだった。
いっそ嫌いと、そう大声で叫んでしまえば少しは楽になるんだ。
だけどやっぱり出てくるのは涙だけ。だって、私は二人が好きで、大好きだから苦しくなるんだもの。
嫌いだなんて、言えない。
(心が、痛い)
涙で視界がぼやけて、そのせいで今ここに立っている事に現実味がなくなってしまう。
もしかしたら、私は夢を見ているのかもしれない。
夢でなくとも、今私は自分の部屋に居て、悪い妄想をしているのかもしれない。
(…そんなのは、ただの願望)
今見た事だけが全て真実なんだ。
私の瞳に映ったのは紛れもなく蒼で、確かにその姿は芹の家へと消えてしまった。
私とは遊ぶのも嫌なのに、芹とは家まで入れる仲なのだ。
それだけが、真実。他に言える事は、何もない。
『もしもし?』
「…はる、きっ…」
気が付けば、自分の部屋のベッドの上にいた。
外界からの光を遮るように布団にくるまり、真暗闇の中携帯を耳にしていた。
涙は枯れる事を知らず、枕を濡らす。
どうやって帰ってきたのか分からなくて、気が付けば今この状態だった。何も、思い出せない。
『どうした?泣いてんのか?』
「…うっ…はるきぃ…」
『藍?落ち着け、何があった?』
「…ふぇ…はる…っ…」
『藍?聞いてるか?どうしたんだよ?』
電話口から晴貴の柔らかい声が届く。
いつもならその声に少しは落ち着くのだが、今は何も変わらなかった。
「……来て…っ…私ん、家…」
携帯を強く握り締めた私の手が震えている事を誰が知るのだろうか。
こんなにも辛いのに。苦しいのに。痛いのに。誰も分かってなんてくれない。
『よし、今から行くからな?動くなよ?待ってるんだぞ?』
それでもまた誰かに頼ってしまうのは、優しくしてほしいから。
悲劇のヒロインを演じたいのか。ううん、今なら演技じゃなく素でやって賞を取れる自信がある。
…限界なんて、疾うに越してるのだから。
晴貴は駅4つ先に住んでいて、彼が来る頃には私は瞼が腫れて視界が狭くなっているのを感じた。
「大丈夫か?」
部屋まで入ってきた晴貴は走ってきたのかその肩を揺らしながら私の傍までやって来る。
相当慌てて飛んできてくれたのだろう。
呼吸を落ち着ける事もしないで、真っ先に私に優しく問うた彼は、ベッドの横に膝を付けて座る。
私が布団から顔だけを出すと、晴貴とは目線の高さが同じだった。その心配そうな顔に少し胸がどきりとした。
いつもと違い、涙をその長い指先で拭ってくれる晴貴に、途切れ途切れながらも胸の内をさらけ出していく。
話している内にあの時の感情がぶり返してきてまた辛くなって涙が溢れても、晴貴が拭いてくれる。
だから安心していつの間にか晴貴に身を委ねていた。
「…蒼がっ、っ…は、ぁ…」
「うん」
「んっ、…せ、芹ん家に…芹…」
「藍?」
「…うっ、…あ…っ…ふぇっ」
「藍、ゆっくりでいい」
嗚咽も出てきて、いよいよ話す事も苦しくなってきた私の背中を、晴貴はずっと撫でていてくれた。
温もりがほしくて手を差し出した私の右手を、文句も言わず包んでくれる大きな両手。
心の隙間を埋めたいがために私は晴貴を利用しているのかもしれない。
私の瞳に映る晴貴の瞳にも、ずっと私が映っていた。
「…そんなに辛いんなら、」
視線をそらす事もできないで見つめ合う私達。
全てを吐き出したところで口を開いた晴貴の瞳は、真っ直ぐ私を捉えた。
その晴貴の顔も辛そうだったから、黙って私も彼の言葉に耳を傾けた。
「……俺にしとけよ」
いつもらしからぬ口調でそう言った晴貴は、頬が少しだけ赤く帯びているように見えた。
その言葉でやっと絡み合う視線から逃れたのだけれど、
「はは…ごめんね、いつもいつも」
「……今言うのは藍をもっと悩ませるかもしれねぇけど、」
真剣な晴貴の声に私は再び晴貴の瞳を見つめる事になる。
晴貴は一度瞼を閉じると、ふうと息を吐いた。そしてその目がゆっくり開くと、その瞳は私を捕らえて離さない。
「俺、藍のこと本気で好きだから。冗談とかじゃなくて」
「え……」
思わず漏れた声は小さくて、本当に出たのかは自分でも分からない。
晴貴が私を…?
その言葉を冗談と思うには、晴貴の声が真剣過ぎた。その言葉を疑うには、晴貴の顔が真剣過ぎた。
知らなかったからと言うには、余りに残酷な事をしていたように思う。
私、今まで晴貴に何をしてきた?
蒼の事ばかり。いつだって私は蒼の事ばかりだった。
それでも貴方は私がいいと言うの?
「今まで藍が篠原の事好きなら、って我慢してたけど……藍のこんな姿見るの、俺もう耐えられない」
「……」
「藍、俺を選べ。俺はお前だけを見るから。お前も…俺の事見てくれ」
「あ…、」
そうか、私と晴貴は同じなんだ。
同じ気持ちを持っている。
お互い想っている相手に自分ではない好きな人がいて、しかもその人の好きな相手は自分のすぐ近くにいる。
私は、蒼と芹。
晴貴は…私と蒼。
私達、似てるんだ。
今まで私が蒼の事で悩んでいた時に傍にいてくれたのはいつだって晴貴だった。晴貴はずっと私の傍にいてくれた大切な人。
晴貴は、…私が蒼の事で泣いているのをどんな表情で見てた?どんな言葉を掛けてくれてた?
あの表情の、あの言葉の奥ではどんな事を思っていたんだろう。
今更気付いても遅い。晴貴の気持ちを知った今では、今まで自分がどんなに彼に酷い事をしてきたのか思い知らされる。
「藍」
晴貴があまりに切ない声で私を見つめるから、私も晴貴から視線を外せない。
「晴貴…」
こんな良い人を、こんな優しい人を、私なんかがフっていいの?私はこの人を好きになるべきなんじゃないの?
そうなったほうが・・・蒼のためなんじゃないの?
「…----私も、晴貴が好き」
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