初恋

1年生の頃、隣のクラスだった蒼の存在に先に気付いたのは芹だった。



『ねぇねぇ、藍』


2クラス混合の体育の授業は無駄に人数だけが多くて、私と芹は追いやられるように体育館の端っこで休んでいた。



『何?』


『あれ、』


肩をつんつんと突かれ芹を見ると、芹はその長い指を惜しみなく前方へと突き出した。



『あれ?』


『向こうのコート』


『向こう?』


芹の言葉を復唱しながら、芹が指差した方向を見れば、隣のコートで隣のクラスが男女混合でバスケをしていた。



『右の方』


何がなんなのか分からないまま、その声に導かれるように視線を右へと移動させた。



『…あ、』


思わず声を漏らしてしまったのは、私達と同じように休憩している一人の男の子と目が合ったから。



その男の子はすぐに視線を逸らすと、少し焦った感じで持っていたペットボトルに口を付けた。



『今お茶飲んでる男の子…えっと、篠原君だっけ?藍をずっと見てたよ』


『え?嘘だぁ。知らないもん、篠原君なんて人』


『篠原君、藍の事好きなんじゃないのー?』


視線を男の子から芹へと戻すと、恋の夜間に目を輝かせて楽しそうな芹は肘で私を突いた。



『そんな訳ないよ。喋った事ないもん』


私は『あり得ないよ』と笑い飛ばしたけれど、その胸は少しドキドキと高鳴っていた。



無意識にもう一度男の子を見るとまた瞳と瞳がぶつかったような気がして、簡単にもその日は彼の事で頭が一杯になってしまったんだ。



格好良い人だった。


背が高くて細身で、さらさらと靡く髪の毛は柔らかそう。遠目からでも分かる彼の整った顔は、少しだけ欧州の血を感じる程だった。



それから私は廊下や教室で彼を見つけると無意識にその姿を目で追ってしまっていた。


そこから彼を意識するようになるまでに時間はそう掛からなかった。



話した事もない人だったけれど、見ているだけで胸がドキドキと高鳴った。


彼と目が合おうものなら、心臓は爆発するんじゃないかってくらいにときめいた。



初めてだった。そんな事初めてで。その姿を見られればその日は一日中幸せで。



…それが初恋だと気付いた。



その頃、彼の下の名前が知りたくて声を掛けた晴貴と仲良くなって、次第に芹も含めて3人で出掛けるようにもなった。


蒼とは今とは違ってしょっちゅう目が合っていたから、



『篠原君、藍の事好きなんじゃないのー?』


自惚れていたのだと思う。




結局、蒼が見ていたのは私ではなかったのだけれど。初めから、多分あの体育の授業の時より前から、蒼は芹を見ていたのだろう。



『藍、聞け』


いつものおちゃらけた感じのない晴貴の声に。



初めて聞くその声に。


初めて見るその真剣な顔に。



すぐに大事な話なのだと気付いた。



『…どうしたの?』


芹のいない状況が蒼と芹が関係している話だと裏付けるようで、出した声は震えていた。



嫌な話だと心の奥底で分かっていたから、夏が始まるというのに手が震えてしまったのだと思う。


動揺を気付かれるのが嫌で必死に気丈な態度で振る舞っていたけれど、いくら経っても手の震えが止まる事はかったから、もしかすると気付かれていたかもしれない。


ただ、晴貴はそんな私の手を見ても何も言う事はなかった。



女の子は勘が良いから。


視線に敏感だから。



それが好きな人となると、その瞳に何が映っているのか嫌でも思い知らされてしまう。


彼の、蒼の視線が誰にあるのか、少しずつ気付いてしまっていたのだ。






『篠原、…芹が好きらしい』


分かってた。



分かっていたの。


だってずっと見てたのだから。彼の事をずっと。その視線の先に誰がいるのか、そんなのずっと前から分かってた。



それでも気付かないフリして蒼を見つける度に飛んでくる芹の揶揄やゆに笑ってた私の心はずっと泣いてた。



芹が悪い訳じゃない。もちろん蒼だって何も悪くない。勘違いして好きにまでなってしまった自分が酷く滑稽に思えた。



それでも今更気持ちを誤魔化すなんてできなくて、やっぱり見るだけでドキドキするくらいに蒼が好きで。


……一気に芹が憎くなってしまう自分がいた。



物心ついた頃から友達で、親友で。もう喧嘩する事もなくなったくらい傍にいる事が当たり前になっていた大切な人。



大好きなのに、憎い。


大好きだから、憎い。



どれだけ嫌だと芹を憎みたくないとこの感情を否定しようとしても、沸き上がってくる醜い言葉。



蒼が芹を好きだなんて。



そんなの……


だってそんなの、酷すぎる。



蒼が好きだ。


でも芹も好きなのだ。



どうすればいいの、私は蒼を諦める?


蒼が芹と付き合って、…そんなの絶対に堪えられない。



だったら、私は芹を…?



『頑張れ。好きならそれを利用してでも手に入れろ』


それは、涙を流してしまった私に晴貴がくれた言葉。



好きなら相手の気持ちを利用してでも手に入れろ。


その言葉をどんな気持ちで晴貴が言ったのかは分からないけれど、私には応援してくれる大きい存在が居るんだと歯を喰いしばって立ち直る事ができた。




『藍、私あの3年の先輩と付き合える事になったんだよ!』


その頃、芹に彼氏が出来た。



すぐに全校公認となる程仲が良くても、蒼は芹を見続けた。


私ではなく、芹を。



辛かった。


ずっとずっと苦しかった。



学校が終われば毎晩布団の中で涙を流した。それ以外に心の痛みを和らげる術を知らなくて、いつも泣いて泣いて、黒い感情と闘って。


けれど、いつしかそんな毎日にも疲れてしまった。



学校に行きたくない。


芹に、会いたくない。


蒼の瞳を忘れてしまいたい。



泣く事に、考える事に疲れて天井の模様を見つめていた時、ふと思い出したあの言葉。



『好きならそれを利用してでも手に入れろ』


真剣に、でも少し顔を歪めて言った、晴貴の言葉。



私の中から綺麗事が吹っ飛んだ。



…そうだよね。


私は彼が好き。


理由なんてそれで十分だ。



何が何でも彼を手に入れてみせる。蒼が誰を好きでも私を好きでなくても。


私は彼を必ず手に入れてみせる。



そうして彼と付き合うことになる事が、自分をどれだけ苦しめるか、この時はまだ分かっていなかった-−-…

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