彼氏
私と彼、
高校1年生の夏、私は蒼に決死の想いで告白をした。
と言うより、それはもう脅しに近かったと思う。
蒼の弱味につけこんだ言葉。だってああ言わないと、蒼は絶対に私と付き合う事はなかっただろうから。
あの頃も今も、私は恋人である蒼が離れて行かないように必死になってる。
だって、気が付けばいつも蒼は私ではない違う女の子をその瞳に映しているから、……きっと本人も無意識なのだろうけれど。
女の子は視線に敏感で、もちろん私も例外なく、蒼の視線の先の存在に気付いてしまった。
そこにはいつも、私の保育園来からの親友、
蒼が芹を好きな事くらい余裕で分かっていた。けれどそんな事でこの気持ちが消滅する事はなかった。
だからあの告白は、蒼のその気持ちを利用した、ただの脅しだった。
『私と付き合ってくれないと、芹が泣いちゃうっ』
自分でも本当に意味が分からない告白だったと思う。
自分ですらそう思うのに、蒼はそんな私の言葉に黙って頷いてくれたんだ。
思わず涙を流していたくらい嬉しくて、これから蒼の傍にいられる事を思うともっと涙が溢れた。
でもそれと同時に…――蒼の芹への愛の深さに吐き気がした。
芹の泣く姿を見たくなくて、好きでもない私と付き合うなんてマジで吐き気がする。
嬉しいのも本当だけれど、辛くて苦しいのも本当だった。
だけど私は蒼の気持ちを殺してでも彼の傍にいたかった。
好きだから。
蒼が芹を好きなくらい、…それよりも、もっと大好きだから。
きっといつか芹を忘れて私を好きになってくれる。
そう信じて、私はずっと蒼の変わらない芹への視線を我慢してた。
いつかは絶対私を見てくれる。
だって、蒼のその深い恋心は絶対に叶わないものなのだから。それを蒼も気付いているから。
…芹には彼氏がいる。
大学生で、同じ学校ではないけれど、毎日学校が終わったら校門で芹を待ってるような、優しい彼氏。
叶う筈がないと分かる程、二人はお互いを想い合ってる。
だから希望を持たずにはいられないんだ。蒼が芹を忘れて私を好きになるその瞬間まで。
ずっと蒼だけを想ってずっと傍にいてあげられる私を蒼が見てくれるまで。
そう思ってこの1年頑張って来た。
…――だけど。
未だに蒼は芹を諦めていない。
ねぇ、蒼。
お互い辛い恋はもうやめて、二人で幸せな恋をしませんか?
「蒼」
放課後の教室。窓際の机の上に腰を掛けて、哀しそうな目で外を見つめる彼の横顔を私は見つめる。
「……」
私の声に気付いていないのかそれともただ無視しているだけなのか、何の反応も見せない彼。
微動だにしないその視線の先には、いつも芹がいるのを私は知っている。
そして今は、…きっと芹の彼氏もいる。
「蒼」
「……」
「…蒼ってば」
少し不貞腐れ気味に声を紡げば、彼は窓の外から教室に視線を戻した。
「どした?」
柔らかに微笑むその顔はまだ陰りを残す。
そんなに落ち込んでしまうのなら、見なければいいのに。
そんな事を思いながら、視線の合わない彼の濃い茶色の瞳を見つめる。
どれだけ私が凝視しようと、やっぱり交わる事のない視線。いつも一方通行。
彼の深茶の瞳は、苛ついて忙しなく動いている私の指先をただ映しているだけ。
切なく鳴った胸の内を隠すように、私は明るい笑みを顔に貼り付けた。
「帰りにミスド寄って行こうよ!」
「お前、マジでドーナツ好きだな」
蒼は小さく笑うと、私の指先からさえも視線を外してしまった。
けれどそれはただリュックに視線を移したから。
リュックを背負った辺り、多分このまま一緒に帰ってくれるのだと思う。
「うん、好き!」
「知ってる」
私の言葉にクスクス笑った蒼は、一瞬だけ私を、私の目じゃなく違うどこかを見ると、それが合図のように歩き出した。
半袖から覗く男の子を思わせるちょっとゴツゴツした長い腕が差し出される事はない。
私は置いて行かれないように見慣れた彼の後ろ姿に付いていった。
蒼は蒼なりによくしてくれているとは思う。
手こそ繋がないものの毎日一緒に帰ってくれるし、私から傍に行けば拒否される事もない。なにより、自分の気持ちを押し殺して私に合わせてくれている。
私のあの告白。
『私と付き合ってくれないと、芹が泣いちゃうっ』
今になって思えば、あんな脅しなんて蒼にはどうでもよかったのかもしれない。
好きな子には彼氏がいて、しかも凄く仲が良くて絶対に自分のものになんてならないと分かっていて、…だから私の告白を受けたのかもしれない。
寂しさや悔しさを紛らわすために、自棄になっているのかもしれない。
…それでもいいと思う。
私は蒼が好きだから。蒼の傍にいられるなら、利用されてたっていい。
私でその心の痛みが紛れるのなら、私はいくらでも貴方の傍にいたいと思う。
教室を出て誰もいない廊下を二人きりで歩く。いつだったか、過去の記憶から隣を歩く勇気が出せない私の位置は、いつも彼の真後ろ。
それでも靴を履き替える時だけは、彼の隣に並べる。たったそれだけの事がとても嬉しくて。
だけど、ちらっと盗み見た彼は。
(ほら、いつだってその瞳は芹しか映さない)
彼の視線を追うと、校門の前で彼氏とお喋りしている芹がいることに気付いて、胸がチクリと痛んだ。
芹を見る彼の横顔に私を見てと願うけれど、いつも虚しく終わる。
だから。
「靴、履かないの?」
「え?…あぁ、うん」
彼の視線が欲しくて声を掛けた私に、彼は我に戻ったように靴を履いた。
やっぱり向けられる事のないその瞳に、余計虚しくなったのは紛れもない事実。
小さく溜め息を吐いて、歩き出した蒼の後を追って校舎を出た。
「あ、
校門に近付いた私達に気付いた芹の彼氏がにっこり笑って手を振ってくれる。
その言葉に芹は振り返り、「あ、藍~!」なんて無邪気な笑顔で私に手を振った。
芹は美人でクールな見た目だけれど、話してみると可愛くて気さくな女の子。
ロングの栗色の髪はとても似合っていて、実は少しでも芹に似ようと私も髪を伸ばしていたりする。
元々の出来が悪いから全然芹のようにはならないけれど、これでも蒼に好きになってもらえるように芹の真似をして努力してる。
だから、
「藍ちゃん、可愛くなった?」
なんて言われるとお世辞でも嬉しくなってしまう。
思わず笑った私を見て、芹は彼氏の
「もぉ!わっくん、浮気だよ!」
「ごめんごめん」
小突かれた所を大袈裟に撫でながら、到底気持ちの込もっていない謝罪を口にする航君。
けれどポコポコ航君の胸を殴る芹の両手首を掴むと、優しい笑みで一言。
「藍ちゃんも可愛いけど、やっぱり芹が一番可愛いよ」
俺はね、と一瞬蒼に目配せした航君。その意味は、きっと私を彼女にしている蒼に対する気遣い。その気遣いが少し辛かった。だって蒼も芹のが可愛いと思ってる。
航君の言葉に芹は照れたように笑った。そんな顔が愛しいと言わんばかりに航君も優しく笑う。そして私もそんな二人のやりとりの前で笑う。
みんな、笑ってた。私は心から笑ってた訳じゃないけど、みんな笑ってた。その事実は変わらない。
…ただ、蒼だけは航君を睨んでいた。
蒼にとって航君は恋敵で、だけどそれは一生勝つことのできない一方通行の勝負。
芹に気持ちを伝えることなく私と付き合ってくれている蒼は、航君と同じ土俵に立つ事さえできていない。始めから負けているも同然だ。
その事に本人が気付いているのかは定かではない。
だけど、ただ航君を睨む事しかしていない蒼は、私に言わせればただの負け犬だ。
...そんな事、それを一番阻止したがっている私が言うものではないけれど。
隣にいる芹の腰を抱いて私を見つめた航君に、蒼は未だ無言の圧力をかけてる。
「相変わらず見てて暑苦しいねー!」
その言葉は芹達に向けて言ったもの。けれど蒼に向けたものでもある。
遠回しに芹達の仲の良さを蒼に教える私は、自分でも相当意地が悪いと分かってる。
「もっと暑くなれっ!」
なんて笑いながら航君に抱き付いた芹、そしてその頭に腕を回して額に口付けをした航君。
もっと。もっと仲が良いところを蒼に見せてあげて。
芹達が蒼の前で何くわぬ顔をして仲良くしてくれると嬉しくなる。
蒼には入る余地なんてないんだよ。
そう、思わせてくれたらいい。
「あ、藍。そういえば今日ミスド行くんだっけ?」
思い出したように紡がれた質問。休み時間に私が芹に話した内容。行きたいなーって話だったけれど。
どう答えればいいのか分からなくて、「うーん?」と言葉を濁す。
それを肯定と受け取ったのか芹は、
「じゃあ私ポンデリングね!家まで持ってきてくれたらいいから!」
その綺麗な顔にふにゃと綻ばせて、図々しくも頼み事をしてくる。
家が近いからって。せめて手を合わせて『お願い』と言ってほしいものだ。
芹の笑顔に「覚えてたらね」なんて、やっぱり言葉を濁す事しかできない私は、芹の可愛い笑顔とは全然違う情けない笑みしかできなかった。
芹達と別れた後、私は蒼の後ろ姿を見つめながらその後を付いていく。
それはいつもの事で、毎日一緒に帰っていたって彼の隣に並んで歩いた事がない。
2メートル前を歩く彼の髪がさらさらと揺れて、毎度の事なのに思わず見惚れた。
太陽の光に曝された腕は長く、学ランのズボンのポケットへと無造作に突っ込まれている。
シンプルなリュックの片方が肩から滑り落ちていても気にしない、そのだらけた雰囲気。
いつもと同じ光景に、いつもと変わらぬ静かな時間。
だけど。
「蒼、ミスド行くの?」
今日はいつもと違う道を歩いてる。
その理由なんてものは誰が考えても一つだけで、
「うん、お使いも頼まれてたし。食べたいんでしょ?」
…そんなの、芹が買ってきてと言ったからしかない。
振り向きもしないで言われた言葉に、『芹ばっかりだね』とは言わず「うん食べたい」とだけ言った。
本当は行く気なんてなかっただろうに、急に行く気満々になっちゃって。
滑り落ちていたリュックを背負い直した蒼の後ろ頭に、『ばーか』と心の中で呟いた。
「じゃあこれとこれと…、」
「ポンデリングも3つください」
ガラスケースの中のドーナツに、どれにしようかと悩んでいた私の横で、蒼がそう口を挟む。
何も私の言葉を遮ってまで言わなくていいのに、と苛ついて睨んでやると、
「あれ?忘れてんのかと思った」
なんて笑った蒼。
笑顔を見れたのに全然嬉しくなくて。むしろ切なさが私を襲った。
だって貴方の瞳は恋してるんだもん。芹を想ってわくわくとした表情なんて、そんなの見たくない。
頼んだドーナツの半分以上は包装してもらって、2つずつは店内で食べる事にした。
二人掛けの席に座って目の前のトレーからチュロスを手に取る。
すると。
「ポンデリング食べないの?」
なんて、トレーの上に2つあるそれを指差した蒼。
なんてデリカシーのない男なのだろうか。よくもそんな事が言える。
「…うん、今日はいいかな」
「…そっか。この前来た時に好きだって言ってたからさ」
「…飽きちゃったんだよね」
確かに今までは来る度に注文していたけれど。蒼はただ芹が食べたいって言ったから頼んだんでしょ。
持っていたチュロスにかぶりついて、砂糖をたっぷりと混ぜた紅茶に口を付ける。
「一つも食べたくない?」
「両方蒼が食べなよ!私はいいや」
4つのうち2つを占めるポンデリング。眉を八の字に下げた蒼に、可愛げなくそう告げ、蒼が頼んだドーナツをチュロスを持っていない方の手で取った。
「あ、それ俺の、」
「2つずつだよ!蒼のはそれ!」
両手が塞がっているから顎でトレーに乗った2つのポンデリングを指す。
「ポンデリング2つ?」
「残したらバチが当たるよ!」
本当に可愛くない。だけど芹を想って頼んだそれは食べたくないんだ。
交互に2つのドーナツにかぶりつきながら目の前の蒼を盗み見ると、蒼は呆れたように小さく苦笑いを溢しながらもポンデリングに手を伸ばしていた。
全く怒ってる風ではなかったから少し安心した私は、ポンデリングを頬張った蒼の口元が緩んでいる事にすぐに気が付いた。
「…おいし?」
「美味しいよ」
「…そっ、か」
幸せそうなその顔はドーナツのせいなの?
それとも芹を想って……?
もう何も考えたくなくて、私は両手のドーナツを食べきる事だけに集中するのだった。
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