笑えない君は、夜の教室へ
@sanbun_ao
第1話
夕暮れの朱が、窓を撫でる。
今の授業は倫理。自己同一性について。
多感な時期の僕たちが、これから何を学び、何を考えていくのか。
僕は、倫理が大好きだ。
暗記教科や、数学と違って、文字や言葉で魂を語る時間があるから。
そして、なにより簡単だから。
絶え間なく語れる雄弁で誇らしい口。
卒業して、大学にでも行けば圧倒的文系と揶揄されてしまうだろう。
まあ、既に言われそうなものだけど。
きーんこーんかーんこーん。
夕焼けが、教室をはんぶんこ。
「今日はここまで」
大好きな倫理の先生が、教科書を畳む。
クラスメイトが、石の裏のワラジムシのように散らばる。
授業が終われば、僕の生活は真っ暗になる。
夕暮れが、出口の扉まで通せんぼ。
呼び鈴が鳴ると、僕は世界から断絶される。
ただ机に、壁に、トイレの個室に。
誰かに許しを乞うかのように、うなだれるだけ。頭を垂れるだけ。
今日の、全ての授業が終わった。
夕暮れの空の下、誰かが何かを話している。
僕は、誰かと話すでもなく、人影が誰も居なくなるまで、机に顔を埋める。
暗闇を抱くように。視界を塞ぐように。
物音ひとつしなくなるまで、只々顔を埋める。
ぱちり。教室の明かりが、消えた。
目の前が、真っ暗になる。
あれ、まだ居るんだけど。
「あのー」
反応は無い。それどころか、さっきまで各々駄べっていた生徒の物音ひとつしない。
「誰かー」ふと、よぎる。
僕は今まで、授業以外で声を出した試しがあっただろうか。
「電気」
自然と声が強ばる。小さくなる。霞みゆく。
暗闇で目が段々と見えなくなるように。
明かりが全くない教室は、どこまでも暗闇が続いていて、自分の身体すら解けゆくような気すらしてきた。
「えっと」
高鳴る鼓動。取り残されたかもしれないという可能性。ここまで誰の反応もないと、想像せざるを得ない。
だれか、いや誰かいるのか?誰かいたら電気を付けてくれるはず。
暗い。あまり静か。
怖い。
教室中の机が、無数に並ぶ学生達の亡霊にすら見えてきそうで。
あれ、教室ってこんなに広かったけ。
暗闇に少し慣れてきたものの、普段うなだれて見ていなかった教室のあまりの広さに、通い続けて二年も経っているのに、驚愕と恐怖を覚えた。
これだけの、人数が学ぶ中。
僕は、声高らかに発表して、その後一切誰とも喋らず、声すらもかけられずにいたのか。
本当に?誰からも?
僕は、高校二年間。
これだけの人数と二年も居て、誰一人。
友達もいなかった。
一段と跳ねる鼓動。
「誰か」口から漏れる声。
口が乾き出す。喉が震える。
声ってどうやって出してたっけ。
授業の時は、はっきりと喋ることができたのに。
あの、と声にもならない呼吸が口からただ、素通りする。
授業なら、話せるのに。
そう思えば思うほど、震える掌。
感じたことのなかった額の脂汗と、襲い来る悪寒。
このまま、学校に取り残されたら。
明日の朝、先生達が教室に来るまでこの暗闇で一人だったら。
恐ろしい考えが脳内を無数に駆け巡り、両肩を誰かに押さえつけられるかのような重圧と、痛み出す下腹部と吐き気を堪えながら。振り絞る。
授業中の熱弁を、思い出す。
語るべくして、語りたい。
語る事で世界に足りぬ、僕の声を伝えたいと。
そう強く誓って振り絞った胸いっぱいの声を。
「誰かいますか!僕は、まだ此処にいます!」
その瞬間、電気が付いた。
「なんだ、まだ居たのか」
入口には先生の姿。高身長で、それでいて少し締まった体つきであるのがスーツの上でもわかる。
スーツの胸には我が草良高校の紋章が入っていて、脇には何かしらの紙が入った黒いファイルを持っている。
そのおそらく先生のような男は、座りなよ、と僕に着席を促す。
僕は、戸惑う。
「とりあえず、座りなさい」
優しく諭すように促されて、目尻に皺が寄る朗らかな笑みを見せられて、仕方なく僕は従う。
だがこの男は、先生では無い。
進学校であるが故に、知らない先生がいる可能性も大いにある。
だけれど。肩から下げたネームプレートには、「笑田 笑太」と書かれている。
こんな珍妙でふざけた名前の先生がいたら、気付かない筈がない。
「っとと、遅れちゃった〜」
と入口から、響く快活そうな男性の声。
「あら、新しい子だ」
と、彼は此方にアイドルのウィンクのように目配せをして、よろしくねと前の席に座る。
その全ての動作は、可憐で煌びやかだった。
そして、なによりその動作を、花弁の如く彩るのは腰ほどまで伸びた、黒髪。
艶やかで、なめらかで美しく、動く度にほのかに甘い香りが辺りに漂う。
だが、前の席に座った途端、黒髪の主は山のように固く重く全く揺らぎのない重圧溢れる背中となった。
肩幅と身長と背中の筋肉のつき具合から、今までの彼の動きを、全て忘れさせてしまうほどの圧倒的な漢の背中。
「彼はお風呂部部長。」と、笑田が僕に伝える。
「よろしくねん」とこちらに振り返る彼の動きに、また甘い花の香りが、鼻をくすぐる。
「はい貴方、また何も食べてないでしょ」とおもむろに机横にかけた鞄から、袋に入ったおそらく手作りの白くふわふわしたパンを取り出す。
突然で、目を丸めていると。
「あ、ごめんなさいね。貴方の分は無いの。今度焼いてくるわね」と優しく微笑みながら、ごめんねと顔の横で手を合わせる。
そして、隣の女生徒に渡す。
さっきまで、明かりが点いてからの今まで。
彼女は、この教室に居ただろうか。
「彼女は雑談。駄弁るのが苦手で、無口だけどいい子だよ」
戸惑う僕に、笑田が微笑む。
「雑談?名前ですか?さすがにあだ名ですよね」
僕は思わず、聞いてしまった。
「なんだ、喋れるじゃんか」と驚く笑田。
「雑談は、雑談だよ」
「だから、名前を教えくださいよ。苗字とか、下の名前とか、あるでしょうに」
「私の名前は聞かなかったのに、雑談の名前は気になるんだ?」とまた甘い香りと共に、ねちっこく此方に視線を送る黒髪先輩。
「別に先輩のあとから聞きますよ。とにかく、雑談なんて名前、あだ名にしても意味不明すぎる。何か名前がある筈です」
「私は、雑談です」
か細くも芯ある声だった。そこに弱々しさや、不健康さは一切ない。曇りなく純粋だけど、小さな声。
「なまえも、苗字もありません。私は、雑談です。それが私です」
僕は、何も言えなくなってしまった。
彼女の声が、それが真実だと背中越しでも分かったから。
だけど、そこに悲しみはなく、哀れみもない。
これが事実だから。という単純明快な回答が、心情が声色から伝わってしまったから。
「さて、みんな集まったね」
改めて自己紹介をば。とネクタイを締め直し、笑田は教壇に向かう。
「私の名前は、笑田笑太」と名乗りながら、黒板に書く。
その姿は紛れもなく、手馴れた教員。
漢字の横に、フリガナを書き込む。
わらいだ しょうた。
「これから、夜の教室のみんなの担任です。よろしくね。」
夜の教室。聞きなれない単語。
「そう、夜の教室。昼間の学校に馴染めない生徒が迷い込む、普段とは全く別の世界さ。」
その瞬間、僕は気付いた。
窓の外が夜だから、暗いのではなく、窓の外一面に何処までも遠く暗闇が続いている事に。
「これから、君は夜の教室の生徒だ。昼間、普段通りの学校を終えて、その日に不満があれば、自ずとこの教室に迷い込む」
笑田が優しく、諭すように続ける。
不安で、手が震えて、顔から血の気が引くのが自分でも分かる僕を、宥めるように続ける
「この教室で行うことは簡単さ。嫌だったこと、苦しかったことを、ただ素直に話せばいい」
一瞬、間をおいて。
「最初は難しいと思うから、私が宿題を出す。でも
、それは、やってもいいし、やらなくてもいい。いつか、やりたくなったらやればいい」
ま、あんまり難しく考えないでいいよ、と微笑む笑田。
何も呑み込めていない僕へ、笑田がプリントを渡す。
「じゃあ、またあした」
きーんこーんかーんこーん。
鐘がなる。いつも通りの呼び鈴がなる。
僕は、気が付くと自室のベッドで寝ていた。
夢だったのだろうか。
起き上がって、メガネをかける。
視界の先。
欠かさず整理整頓された机の上に。
見覚えのない紙。
本日の日付が書かれた宿題。
「夜の教室 本日の宿題 クラスメイトを観察しよう」
そして、右下に書かれた『笑田笑太』の文字。
どうやら、夢じゃないらしい。
笑えない君は、夜の教室へ @sanbun_ao
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