第3話 背中の名前と嘘の行方
箱根にある研修センターに到着すると、私たちは班ごとの部屋へ入室した。
部屋の両脇には二段ベッドが四つ設置され、奥には八畳ほどの畳スペースがある。
私は一段目が良かったが、他の四人に先を越されてしまった。
誰の上にするかと躊躇していると、声をかけてきたのは彼女だった。
「池井も下が良かった? 代わろうか?」
苗字の呼び捨て。
けれど、初めて浅倉沙映子に個別の存在として認識された気がして、なぜか泣きそうになった。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
「私、どこでも寝られるから大丈夫よ?」
「本当に大丈夫。あ、……沙映子の上にしようかな」
何気なさを装って、初めてその名を口にしてみた。
「いいけど、寝言うるさいかもよ」
私という存在を受け入れてくれた。
それだけで飛び上がるほど嬉しかった。
この時、私は心底、彼女と仲良くなりたいと願ったのだ。
「恋ちゃん、オリエンテーション何時から?」
沙映子が江藤恋を「恋ちゃん」と呼ぶ。
羨ましかった。
けれど、私は呼び捨てをされている。
私の方が彼女に近いのだと、密かな優越感で自分を納得させた。
研修中の服装は「動きやすいもの(ジャージが好ましい)」とされていた。
私、恋ちゃん、涼ちゃん、伊勢ちゃんは、それぞれ新調したばかりの可愛らしいジャージに着替えた。
きっと沙映子は、もっと洗練された格好いいものを着るのだろうと思っていた。
「え? 沙映子、それって……ウケるんだけど!」
恋ちゃんと伊勢ちゃんが爆笑していた。
私は絶句し、涼ちゃんは相変わらず険しい目を向けている。
「それ、スクールジャージじゃん!」
「『浅倉』って刺繡入ってるし!」
沙映子は私たちに背を向けた。
「背中にも刺繡あるよ」
親指で背中の名前を指し、モデルの真似事をする彼女に、私はどこか安心感を覚えた。
気取っているだけではなく、こんなお茶目な一面もあるのだと。
「なんでスクールジャージなの?」
思い切って尋ねると、彼女はまた、あの「スーツ理論」を展開した。
「三年間着込んだから動きやすいし。みんな、そのおしゃれジャージ、研修以外でいつ着るの?」
また、無駄遣いをしてしまった。
恋ちゃんと伊勢ちゃんが後悔を口にする。
私も同じだったが、それ以上に沙映子の発想力が羨ましかった。
集合時間が迫り、みんなが立ち上がる中、沙映子はバッグから携帯電話を取り出した。
「ちょ……沙映子、なんで持ってるの?」
研修期間中の携帯利用は厳禁だ。
到着と同時に全員が預けたはずだった。
「預けたのは、これの前に使ってた解約済みのやつ」
ずるい、けれど感心してしまった。
「なにそれ、馬鹿じゃないの? あー、まじチクろうかな」
涼ちゃんが本気で腹を立てている。
「いいよ、チクっても。ただ、後悔するのは涼ちゃんだからね」
「何言ってんの、負け惜しみ?」
沙映子の言葉の真意は分からなかった。
彼女は携帯の電源を切ると、先頭を切って部屋を出た。
背中の『浅倉』の刺繡のほつれが、妙に可笑しくて、私は密かに笑った。
翌朝、午前六時。
女子三キロのマラソン。
これが一週間続くのかと思うと、気が滅入る。
「すいません、今朝、生理になっちゃって」
教官にさらりと嘘をつく沙映子の姿に、一班の全員が目を見開いた。
そんな素振りは微塵もなかったのに。
涼ちゃんが嘘を暴くかと思ったが、彼女は黙っていた。
行進とマラソンが混ざった三キロを終え、研修センター前に戻ると、沙映子が涼しい顔で体育座りをしていた。
正直、イラついた。
みんな同じことを思っている。
ただ、沙映子のように実行に移せないだけなのだ。
沙映子は私を無視するように通り越し、一点を冷ややかに見つめていた。
その視線の先では、涼ちゃんが他の女子たちに囲まれていた。
「すごいね、ぶっちぎりじゃん!」
「陸上部だったの?」
身長が高くスリムな涼ちゃんは、まるで宝塚の男役のような華やかさを放っていた。
そうか、涼ちゃんは自分の脚に自信があったから、沙映子の仮病を見逃したのか。
自分が勝てる土俵で、沙映子を不在にさせるために。
再び沙映子を見ると、その表情は先ほどより厳しくなっていた。
嫉妬だろうか。
自分が中心にいないことが許せないのだろうか。
仮病でサボった挙句、注目を浴びた涼ちゃんに苛立つ。
沙映子の株は大暴落だった。
午前中の電話対応講習、涼ちゃんはマラソンで張り切りすぎたのか、医務室で休んで欠席した。
沙映子は遅れて加わった。
どうせ得意のサボりだろう。
私は伊勢ちゃんと配属希望の話をしていた。
「私、オペレーター希望だからね」
「伊勢ちゃんは今日、気合入るね。池ちゃんもフロント希望なら大事でしょ?」
伊勢ちゃんだけが私を「池ちゃん」と呼んでいた。
本当は下の名前で呼んでほしかったけれど。
昨夜の面接で、恋ちゃんは憧れのブライダル部門、涼ちゃんはルームサービス、そして沙映子は「ベルガール」を希望したという。
ベルガールは重い荷物を運び、走り回る重労働、いわば「客のパシリ」だと聞いた。
あの合理主義で、サボり癖のある沙映子に、そんな仕事が務まるとは到底思えなかった。
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