第2話 常識を嘲笑う女
二〇〇一年四月。
とにかく実家を出たかった。
両親という呪縛から解放されたかった。
その一心で、高校三年生になると即座に就職活動を始めた。
条件はただ一つ、関東圏内での寮生活。
テレビドラマや旅番組で見たリゾートホテルへの淡い憧れを抱きつつ、私は『国際 リゾート計画株式会社』の内定を勝ち取った。
勤務地は神奈川県の湘南地区。
栃木の田舎者でも知っている有名な観光地だ。
不安なんてなかった。
あるのは、ただ明るい未来への期待だけだった。
入社式は、勤務先となる『シーサイドリゾート湘南』の国際ホールで行われた。
席は男女別、あいうえお順。
私は最前列だった。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
右隣の女性と挨拶を交わす。
自然と互いのネームプレートに目が走った。
「池井美晴ちゃんね。美晴ちゃん呼びでいい?」
「あ、はい。伊勢さん」
彼女の名は『伊勢真由子』
それにしても、初対面から数十秒で「ちゃん付け」とは。
「美晴ちゃん高卒採用でしょ? タメなんだから敬語はやめようよ」
「そうだね。じゃあ、真由子ちゃん」
「ごめん、下の名前で呼ばれるの慣れてないから苗字にして」
だったら最初からそう言ってほしい。
「伊勢ちゃんでいい?」
「それそれ。それがいい」
これだけのやり取りで、私はどっと疲れてしまった。
「どーもー。お二人もう友達になったの? 仲間に入れてよ」
伊勢ちゃんの右隣、背の高い女性が声をかけてきた。
彼女、上杉涼子の絡みは、伊勢ちゃん以上に面倒そうだった。
けれど二人は一瞬で打ち解け、「伊勢ちゃん」「涼ちゃん」と呼び合い始めた。
あまりにも呆気ないその光景に、私は自分が異常なのだろうかという錯覚に陥る。
「涼ちゃんはどこ出身?」
勇気を出して声をかけてみたが、涼ちゃんは「……青森」と短く答えただけだった。
出身地を知られたくなかったのかもしれない。
それ以上に、「それよりさ、池井の隣、まだ来てないね」と苗字を呼び捨てにされたことが、胸に小さな棘となって刺さった。
会場内はリクルートスーツ姿の男女で埋め尽くされている。
まもなく定刻。
アナウンスと共に、ざわつきが収まっていく。
緊張と期待が交差する。
大丈夫、やっていける。
暴力的な父と意地の悪い継母に耐えてきたのだ。
忍耐力だけは誰にも負けない。
今日、やっと新しい人生が始まるのだ。
その時だった。静まり返った場内が、再び波立つようにざわつき始めた。
「なに? あの子」
涼ちゃんが呟いた目線の先に、彼女がいた。
「え?」
私も思わず声を漏らした。
茶髪のボブヘアに、リクルートスーツとは程遠い装い。
スタッフかと思ったが、胸にはしっかりとネームプレートがある。
襟元と裾にレースをあしらったデニムのミニワンピース。
厚底のヒールにエナメルのバッグ。
まるでティーン誌のモデルが紛れ込んだかのような彼女は、黒一色のスーツ陣営を嘲笑うような鮮やかさで、私の隣の空席に腰を下ろした。
——浅倉沙映子。
穏やかな顔立ちだが、芯の強そうな幼顔。
驚いたのは、彼女がすっぴんだったことだ。
このクオリティで化粧なんてしようものなら……。
入社式の二時間は、隣に座る彼女のことばかり考えていた。
「研修では同列の五人が同じ班になります。最前列が一班です」
一週間の地獄の研修。
一班のメンバーは、浅倉沙映子、私、伊勢ちゃん、涼子、そして江藤恋。
研修所へ向かうバスの中、一班の五人は後部座席に固まった。
一番奥に座った沙映子に、ハスキーボイスの江藤恋がさらりと疑問を投げかけた。
「ねえ、なんでスーツじゃないの?」
車内中の人間が聞き耳を立てているのが分かった。
「それ、今日以外に着る機会ある?」
初めて聞く沙映子の声は、幼い顔に似合わず落ち着いていた。
「ない……かも」
「でしょ? 今日しか着ないのに、そのスーツいくらした?」
「五万くらい、かな」
車内の空気が揺れた。
私は四万円だった。
「私のこれ、セールで九千八百円。全部合わせても二万でお釣りきたわ」
どこからか「安っ」と声が漏れる。
「でも、常識的に考えたら……」
「常識?入社前に無駄金を使わせるこの会社のほうが非常識でしょ。給料も貰ってないのに五万の出費なんて、ありえないわ」
一刀両断だった。
「確かに」「そうだわ」と同調する声が広がる。
沙映子の圧倒的な合理性とカリスマ性に、車内の空気が塗り替えられていく。
「沙映子お願い、今度それ貸して」
「いいよ。バッグもヒールも貸してあげる」
江藤恋が「沙映子」と呼び捨てにしても、彼女は事も無げに受け入れた。
車内が盛り上がる中、涼ちゃんだけが不機嫌そうに外を眺めていた。
「気に入らんわ、あのクソ女」
剥き出しの嫉妬を隠さない涼ちゃんを、伊勢ちゃんが必死に宥めている。
沙映子と江藤恋。
涼ちゃんと伊勢ちゃん。
後部座席の両サイドで二組が繋がり、真ん中に座る私だけが、行き場をなくして孤立していた。
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