どうして沙映子ばっかり

北屋敷友紀子

第1話 届かない断罪~プロローグ~

 三月の湿った風が、建付けの悪いアルミサッシを鳴らしている。

 1Kの室内には、饐(す)えた生活臭と、放置されたゴミ袋から漏れ出す微かな腐敗臭が淀んでいた。

​ 池井美晴は、脂ぎった髪を耳にかけ、色褪せた座椅子に深く沈み込んでいた。

膝の上には、毛羽立った古いバインダー。

その上に置かれた便箋は、彼女の指先の震えをそのまま写し取るように細かく波打っている。


​「……っ」


 ​美晴が低く唸ると、足元で丸まっていた雑種のクロが、ビクリと肩を揺らした。

散歩にも連れて行ってもらえず、狭い部屋でストレスを飼い慣らすしかないその犬は、すでに自分の前脚を血が滲むまで噛み壊している。

 クロが不安げに鼻を鳴らすと、美晴は舌打ちをし、床に転がっていたおやつの袋を無造作に掴んで放り投げた。


​「黙っててよ。今、忙しいんだから」


​ クロが投げられた肉片を必死に貪る音を聞きながら、美晴は再びペンを握りしめた。

 視線の先には、壁に貼られた一枚の切り抜きがある。

 数年前の業界紙に掲載された、浅倉沙映子のインタビュー記事だ。

 スーツを凛と着こなし、知的な微笑みを湛えた沙映子。

 その瞳が、この汚濁に満ちた部屋を見下しているように見えて、美晴は呪いを刻み込むようにペンを走らせた。



​​浅倉沙映子様


​時候の挨拶は省きます。

もう、私たちにそんな儀礼は必要ないでしょうから。

あなたへの連絡手段をすべて断ったので、これが最後のお喋りです。

​まずは25年間、こんな私と友人関係を続けてくれてありがとうございました。

ええ、「こんな私」です。

私をこんな無惨な姿に作り替えたのは、紛れもなくあなたでした。

​かつての私は、あなたに憧れ、尊敬し、あなたという正義を崇拝していました。

その裏で、醜い嫉妬や得体の知れない恐怖に震え、おこがましくもライバル視したことさえあります。

けれど、結局は一度だって勝てなかった。

あなたは、私の卑屈さも、追いすがるような視線もすべて気づきながら、涼しい顔で「友達」を演じ続けてくれましたね。

​感謝していると思いますか?

冗談じゃない。

あなたの影を踏み続けた私の人生は、不幸の連鎖でした。

「振り回した覚えはない」と、あなたは心外そうな顔をするのでしょうね。

確かに、あなたは私に何一つ強要しなかった。

けれど、肝心な時に助言も救いの手も差し伸べなかった。

ただ、残酷なほど完璧な「付かず離れずの距離感」を維持し続けただけ。

​いっそ、もっと早く突き放してほしかった。

それなのに、人生最悪のどん底に落ちた私を、今になってこれほど簡単に切り捨てるなんて。

​すべては私の独りよがりだったのでしょうか。

仮にそうだとしても、あなたは私の状況をすべて把握していたはずです。

この最悪な結末が、あなたからの影響で招いたものだということも。

気づいていましたよね? 私のやりきれない叫びに。

他人が聞けば、悪いのは私で、あなたには何の落ち度もないと言うでしょう。

でも、そんな理屈はどうでもいいの。

この25年にわたる不幸の元凶は、あなた。

それだけが真実です。

​私がうつ病を患ったことも、自己破産したことも、生活保護で命を繋いでいる現状も、元を辿ればすべてあなたに行き着く。

あなたは少なくとも、二人の人間の人生を壊した。

一生かかっても這い上がれない奈落へ突き落とした自覚はありますか?

​渡真利くん、可哀想でしたね。

確かに悪いのは彼だけど、あの時あなたがしたことは正気の沙汰じゃなかった。

当時は恐ろしくて声も出せなかったけれど。

​……安心してください。

これからも秘密は守ります。

いえ、正確には「言えない」だけ。

元友人とはいえ、そんな怪物のような知り合いがいると知れたら、私の人格まで疑われてしまいますから。

その代わり、私の秘密も墓まで持っていって。

まあ、あなたの犯した罪に比べれば、砂粒のような些細なことですけれど。

​相変わらず、お仕事一筋なのでしょうね。

無職の私に、嫌味なほど「忙しいアピール」をしていたあなた。

女性初の管理職でしたっけ?

部下を言葉巧みに手なずけ、冷徹に駒として操っている姿が目に浮かびます。

​せいぜい、そのまま高みを目指して頑張ってください。

金輪際、私の視界に入らないで。


​2025年3月31日

池井美晴


​ 書き終えた手紙を折りたたみ、封筒に入れる。

 けれど、美晴は知っている。

 今の自分には、この手紙に貼る切手代も、ポストまで歩く気力も残されていないことを。

 この手紙は、誰に届くこともなく、ゴミに埋もれたこの部屋で自分と共に朽ちていくのだ。

​ 美晴は膝を抱え、血を流し続けるクロの脚をぼんやりと眺めながら、独り言のように呟いた。


​「ねえ、沙映子。どうして、あなたばっかり……」









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