第5話 私は辛い人生より
今日は一日、到底受け止めきれないことの連続で、本当は雪もナカハラも自分が作り出した幻想ではないかと度々自分に対する猜疑心が芽生えてくる。しかし、今実感している疲労も隣で寝こけている等の本人も、触れば実体のある現実として今瀬に襲いかかってくるのだからやりきれない。
「雪、風呂だけ入ろう。」
今すぐ布団に入ってしまいたい気持ちを叱咤しながらぐでんぐでんになった雪を持ち上げる。
「ん〜…」
急に話し出したからか消耗した様子で目を擦っている。昨日よりも少し重くなり、もう少しで抱っこはできなくなるかなと思いながら風呂場へ引きずる。成長していって大きくなったら、こんな甘えん坊では困る。主に今瀬の体が持たない。成長と共に精神は成熟してくるのだろうか。念の為、今からしっかりものに教育しておいた方がいいのだろうか。そろそろ自分にそれほどの力量はないと思い当たった今瀬はこれ以上頭を働かせることを放棄して雪を叩き起こすのであった。
やっとの思いで布団に入っ頃にはもはや日付が変わっていた。一人では寝ることのできない雪に付き添って自動的に早く就寝していたためいつのまにか健康的な生活になっていた。
隣で眠る雪を見ると、あどけない寝顔は未だ子供のままであるが、やはり乳幼児というよりは児童に近しくなっている。鼻をぷうぷうさせながら口をぽかんと開いている。朝になると何故かうつ伏せで丸まった体制で寝ていることが多い。苦しくはないのかと毎回心配になるが、本人はこれが寝やすいらしい。この姿勢にごめん寝ポーズという名前がつけられているのは最近知ったことである。やはり正体は猫であるのかもしれない。
「アホ面しやがって」
こちらの苦悩に我関せずといった態度でいつも過ごしている雪であるが、今後の本人の処遇が本人自身にかかっていることをきっと彼は知らないのであろう。そもそもやっと話し始めたのに理解できるかも不明である。
なんだか解せない気持ちがしてまろい頬を指で突くと眉間に皺を寄せながら威嚇するのが面白くてしつこく触ってまう。
「いてぇ!」
あまりにしつこかったのだろうか尖った歯で指を噛まれてしまった。手を離しても未だに険しい顔で唸ってるのがなんだか笑ってしまった。
そのくせ、今瀬が手のひらで優しく頬や頭を撫でてやると、雪は大変お気に召すのかもっともっとと言うようにグイグイと顔を押し付けてくる。こんな小さな命が自分だけを頼りにして全てを預けてくるのがなんだかたまらなくなって、小さく灯した電灯を必死に見つめていた。
✤✤✤
1面の銀世界。見渡す限り白銀しか見えなくて、どこかに脱出口がないか探して空を見上げたらまるで全体がうねっているように迫ってきて尻もちを付いてしまう。どこまでも埋まっていく手のひらは、雪が体の中まで鋭敏に突き刺し骨を砕こうとしている。
始めてのはずのそれは、あそこよりも寒くて冷たくて寂しい荒涼とした場所であるはずであるにも関わらず、まるで旧友と再会を果たした時のような妙な興奮があった。
あそこより冷たいのに、ずっと触っていたいような、早く手を引いて中に連れて行ってほしいような、得体の知れない安心感は体全体を覆い尽くす。
早くそっちに連れてってよ。
迎えにくるっていったのに。
ここではない何処かに____。
***
あれから雪との生活は、雪が異星人だと言うことを除けば何の変哲もなく過ぎている。今は小学校低学年くらいといったところか、何でも自分でやりたがるしよく喋るしで、一層騒がしくなった。学校に通わせた方がいいんじゃないかとも思ったけど、戸籍もないし猫の姿じゃどうしようもない。ナカハラに預かってもらっている間、ちょこちょこ文字などを習っているらしく、嬉しそうに教えてくる。
今日も、商店街を歩きながらあれをしたとか、何を教えてもらったとか嬉しそうに話している。
「おっ、雪ちゃん今日はご機嫌だね〜」
店頭に立っていた八百屋のおじさんが声をかける。ここの商店街を通るうちに雪は「お馴染みの猫」としてこの商店街の人たちに構われていた。今瀬の隣でいつも一生懸命に話す雪をみんな優しく見つめている。最初は今瀬の足にしがみついてずっと俯いていたくせに、今では嬉しそうに尻尾を振っている。
そして、最近気づいたことであるが、どうしてか雪が他の人に撫でられているときは今瀬にも雪が猫の姿に見えるのである。最初は大変に驚いて、思わず目を擦ってしまった。そもそもなぜ自分だけが雪の本来(?)の姿を見ることができるのか分からないのに…。しかし、こうして目を輝かせて飛び跳ねる雪を見るとそんなこともどうでも良くなってくる。
「そういえば兄ちゃん、最近夜遅くにこのへんで黒塗りの車が通ってるって聞いたか?」
雪の話を遮って八百屋のおじさんが話しかけてくる。
(あ、戻った)
人間に戻っても耳と尻尾を垂れさせあからさまにシュンとした雪に、苦笑して抱き上げる。
「いや、聞いたことはないですね。」
「なんでも、ほぼ毎日ここらを走ってて、あっちの家の方の前でしばらく停まってるらしい。」
店主が指差した方は、ちょうどナカハラの家がある方向である。なんとなく胸騒ぎがしたが、物騒なことが増えてきた世の中ではよくあることだと思いあまり気には止めなかった。
***
雪は段々、自分が他人にどう見えているのかを理解してきたのか、たまに暗い表情をするようになった。自分はどこに来たのか、なぜ他の人間とは違うのか、聞かれたときに今瀬は答えられる自信がない。雪の心を知っていながら見てみぬふりをしてしまう自分にも卑怯だと思っているが、他人の心に踏み込むにはどうしたらいいのかいつもわからなくなってしまう。本当の意味で相手を知り親しい中になるということをしてこなかった。自分が持つ経験だけでは、誰かを納得させるほどの言葉を生み出すことができない、今更歯がゆさを感じていた。こんな自分に誰かを育てる資格はあるのか、このまま成長していって雪はどうなるのか。最近はマイナスなことばかり考えてしまう。
これほど悩むのは、今瀬の従兄弟からかかってくる電話にも関係していた。もはや顔も声も知らない母親は名のある血筋の直系に当たるらしい。家の命令で父親と結婚し、生まれたのが俺だ。そこから、何がどうなって俺が孤児院に引き取られたかは分からない。気づいたら俺はひとりになっていて、孤児院に入れられた数年後、母親の実家に引き取られた。
そこに居たのが叔父の息子で、俺の従兄弟にあたる涼太(りょうた)だ。
そこでの生活はただただ息苦しく、こうして家を出た今もあの家に悪い意味で監視されながら生活している。
しばらく無視しているにも関わらず未だ鳴り止まない携帯をチラリとみて頭を抱えた。
「いずみ、あたまいたい?」
ガタッと音がした後ろを振り返ると、眠そうに目を擦る雪が立っていた。
「まだ起きてたのか。明日も朝早いから、先に寝てろよ。」
素っ気なく言い放つとまた机に向かって作業を再開する。すると、服の裾を引かれる感覚がした。
「やだ、一緒にねる……。」
「俺はやることがあるから、先に寝てろ。」
いつもは素直に言うことを聞く雪であるが、今日は頑なである。
「やだ、やだ!!一緒にねるの〜!!ねる!ねる!」
雪の駄々をこねる声が夜のアパートに響く。
「あーもう、少し静かにしてくれよ…。」
諌めようとしてもなお雪はぐずって駄々を捏ねている。先ほどから鳴り止まない携帯と雪の声がずっと耳を刺激する。
「だから、俺は忙しいの!言うこと聞けよ!!」
勢いに任せて苛立った様に言い放った今瀬は、しかしその瞬間に我に返り青ざめた。中々上手くいかない育児や実家のゴタゴタで最近の今瀬はずっとピリピリしていた。雪が今瀬に絶対的な信頼を置いる、もしくは今瀬にしか頼れないという状況で自分をアテにして生きるしかない。そんな状態で自分の都合で苛立ちをぶつけてしまったことに罪悪感を覚える。
「あ、ごめん…あの、」
慌てる今瀬に雪は今度こそ何も言わずに寝室へ走って行った。
強かった焦燥感は、一気に冷や水をかけられたことで今度は急速な諦念感をもたらした。
明日雪にちゃんと謝ろう。きっとすぐに忘れてけろりとまたやんちゃな雪に戻っているだろう。
しかし、あれきりわがままを言わなくなった雪はたまに家に居るときでも寂しそうな顔を見せるようになった。
「やっちまったな...。」
我ながら大人げないことをしてしまった。やはり自分には誰かをまっとうに育てることなどできっこないのである。
さらに、最近商店街を行き交う親子やニュースに映る親子連れをじーっと見ている機会が増えた。
「雪、あー...、自分の家族とか、覚えてるか?」
最近はもうしっかりと自分の意見を主張できるようになった雪だ。もしかしたらここに来る前の記憶があるのかもしれない。恐る恐る聞いた今瀬に雪はぽかんとして答えた。
「かぞくって、なに?」
想定外の返答に一瞬答えに詰まってしまう。確かに、赤子の姿で捨てられていた雪は当初から記憶のない様子であった。ただの記憶喪失などではない。本当に、何も知らないまま捨てられていたのだ。
得体の知れない存在とはいえ、感情があり肉体を持つ生身の生き物である。その真っ新な生命体を自分の手で育てる、いや、これから今瀬次第でこの子の未来が決まると言っても過言ではない。
今更、そんな重大な責任を自分が背負っていることに、その重さに心がずんと重くなるような心地がした。
***
その日は耳をつんざくような音で目が覚めた。ガシャンガシャンと睡眠のBGMとしては騒がしい音を遠くに聞きながら夢と現実の境を彷徨っていた今瀬は、ガシャーン!!という一層大きい音で現実に引き寄せられると、慌てたように跳ね起きた。
隣見ると雪がいなかった。ハッとして辺りを見回すと、さも悪いことがバレたような顔で雪はぺっしょりと耳と尾をたれていた。
「何やってんだ!!」
雪の手首をぐっと引き寄せると、垂れていた耳がピンッと立ち翡翠の目をこぼれんばかりに見開いた。しかし、次の瞬間自分が怒られたと気づいたのか見開いていた目がみるみる歪められた。またもや、、つい大声を出してしまったと気づいたときにはもう遅い。
安アパートの朝に子供の泣き叫ぶ声がこだまする。
「あああ、ごめん、つい大きな声だして…」
こんなときどうすれば良いかなにも分からない今瀬は空中に両手を彷徨わせながら宥めようとする。
完全に泣くモードに入ってしまったのか、肩に手を置いた途端猫のように身をくねらせて避けられてしまった。
「ご飯食べたかったの?起こしてくれれば…」
「ちがう!違うもんんん〜…うぅ〜っ、」
どうしようかと頭を抱えていれば、頑なに顔を覆って隅っこまで逃げていた雪が顔を上げてまた大粒の涙を流し始めた。まるで駄々っ子のように叫ぶ声が頭に響く。
「雪、料理したいなら今度一緒に何か作ろう。今日はとりあえず作っちゃうから、ナカハラさんとこ行く準備して…」
「いや!!」
手を払われた感覚に一瞬思考が追いつかない。これほどまでに強い拒絶は過去に一度もなく、こんなに力が強くなったんだなと頭の片隅で関係ないことが浮かんだ。
「ゆき…?」
「だって、だっていずみ、ずっと辛そう…。」
「え?」
いつもの寂しそうな眉の下がった顔ではなく、何かを我慢するように眉を釣り上げていた。しかし、今瀬が未だ拒絶に呆然としていると、急に動き出した雪が玄関に向かって走っていく。突然のことに手を掴もうとするが、ギリギリのところですり抜けていく。
「ちょっ、待てっ雪!」
閉まりかけていた玄関のドアをこじ開け慌てて雪を追うが、階段を降りたときに「違和感」に気づく。アパートに面した一本道は遠くまで続いており、瞬間的に姿を消すことは不可能である。しかし、今瀬が路地に出たときには既に雪の姿は消えており人一人いない閑散とした街はいつも通りの様相を示していた。
「雪ーっ!?」
思わず大きい声が出る。左の方からかすかに音が聞え、朝霧で薄ぼんやりする路地の先をじっと見つめると、ちょうど角を曲がったであろう黒い車の端を視界に捉えた。
ここを自動車が通るのは別段珍しい事でも何でもない。しかし、物騒な噂を聞いてしまったからか今瀬の勘がそうさせ得るのか、心臓が早鐘を打つように耳元で鳴っている。焦りからか手の震えが止まらない。
「ゆき...?」
アパートの軒下や建物の裏、階段下のように近くに隠れているのではないかと一種の現実逃避をするように今瀬は周辺を探し回った。しかし、ここらにはいないと分かると茫然としたように先程の車が走り去った方へ足を向ける。十字路に出て同じ方向に曲がる。駆ける。何もない閑静住宅である。今瀬ははじかれた様にアパートの方へ身を翻すと、家から携帯と財布を持ち一直線に真反対ほ商店街へ向かっていった。
***
「ナカハラさん!!」
なす術もない今瀬は、一縷の望みをかけてナカハラの家に来ていた。
まだ早朝だが、そんなこととっくに頭から消えている今瀬は扉を何回も叩きながら呼びかける。
しかし、いつも気怠げに起きてくる姿はなく、まだ寝ているのかと思案する。申し訳ないと思いつつ指をかけると、引き戸が何の抵抗もなく動いたのだ。
「え、開けっぱなし…?」
鍵のかかっていない扉に不信感を覚え、若干の後ろめたさを覚えながらも中に入っていく。
「ナカハラさん!勝手に入ってすみません、雪が…っ、!」
ナカハラに呼びかけるように中へ入った今瀬は、居間に入ったとき思わず言葉を失ってしまった。
居間にある家具や物が、本来あった場所から散り散りになり、壁や床には引っ掻き傷があった。
明らかに何者かに害されたであろう痕跡に、今瀬は思わず後退り顔を真っ青に染めた。
何もすることができずに途方に暮れる今瀬は、ハッとして急いで居間へ向かった。案の定、部屋はもぬけの殻になっており、その荒れようはことの重大さを物語っている。
ナカハラはここの星の人間ではない。同じく雪も…。2人が同時に消えた。これが何を意味するのか、嫌でも考えてしまう。
そういえば、とナカハラが鍵とパスポートをしまっていた引き出しを見れば、乱雑にこじ開けられ中身は空になっていた。よく見ると、引き出しの隙間に引きちぎられたように紙が挟まっており、何か文字が書いてある。引っ張り出して見ると、「相良」という文字と、あとは千切れていて何が書いてあるのか分からない。
しばらく佇んでいたが、外で車が通る音が聞こえた。いくら普段人の通りが少ないと言っても、そろそろ人が出てくる時間である。
今瀬も今日は当たり前に会社に行かなくてはならない。到底そんな気にはなれないが、とりあえず警察に連絡をして、その場を離れることにした。八方塞がりな今、何もできることはなくただ無力感を感じる。
程なくして警察が訪れ、そのまま事情聴取をされることとなった。会社に連絡を入れ、署へ連れて行かれる。
「家主とはどういったご関係なんですか?」
一瞬答えに詰まる。
「近所に住んでいて、たまに世間話をするんです。」
「へぇ、ではなぜあなたは中の惨状に気づいたんですか?」
所詮今瀬とナカハラはたまに挨拶するだけの関係で合った。それを繋げたのは、他でもない…。
「……猫です。俺、猫を飼ってて仕事に行く時にはナカハラさんにいつも面倒を見てもらってました。今朝その猫がいないことに気が付いて、もしかしたらと思って急いでナカハラさんの家に行ったんですが、あのような……。」
本当は雪のことも一緒に言いたかった。しかし、言えるわけがない。この人たちからしたら、雪はただの猫であるのだから。急に黙った今瀬を見て勘違いしたのか、警察官は気の毒そうな目で話しかけてきた。
「……あとは我々に任せてください。ご協力、ありがとうございました。」
解放され、外に出る。日はすっかり昇り切っており、目を突き刺すほどの眩しさに一瞬ふらつく。
今瀬は、未だ理解が追いつかない頭で職場へ向かった。
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