第8話 村の医者

 リンドバーグは自身の住居でもある診療所の前で伸びをした。いい天気だ。風が吹いた。涼しい風だ。目を細める。黄金色の小麦が揺れる景色を見るのが、リンドバーグは好きだった。もうそろそろ、収穫の時期だな。台地から下りる斜面にはブドウの段々畑が美しい縞模様を描いている。こちらは檸檬色の花が咲き始めている。

 少年が、診療所の敷地内に立ち入ってきた。リンドバーグが目を向けると、少年はやや頭を下げる。

「よう」とリンドバーグは声をかける。

「おはようございます。リンドバーグ。すみません。今日も水をいただきに来ました」

「わざわざ断らずとも勝手に汲んでいいと言ってるだろう」とリンドバーグ。

「それでも、いちおう」

 どことなくいつもより眠たげな様子だ。もしかしたら、夜中、また気配にたたき起こされて北に向かったのかもしれない。

「相変わらずだな。どうだ、ちょうど朝餉の支度が済んだところだったんだ。食っていかないか?」

「すみません。気遣いはありがたいですが、遠慮しておきます」

 そう言って、少年は裏手にまわる。滑車に引っ掛けてある綱を引っ張って鶴瓶桶を引き上げる。持ってきた手桶にたっぷりと水をうつしてから、鶴瓶桶を井戸の底に戻した。するすると重力に従って落ちていく鶴瓶桶の速度を、少年は滑車に手を押し付けて塩梅する。水面に沈む直前にちょうど速度をなくすのを掌からの感触で把握すると手を静かに手を離す。ぽちゃん、とかすかな音が立った。

 これで用は済んだとばかりに足早に立ち去ろうとする少年を、リンドバーグは呼び止める。「なあ」

「はい」

「お前、もう少し堂々としていていいんだぞ? お前の働きは、本当なら英雄と言ってもいいものだ。村の連中だって、心のどこかではきっと理解している」

「リンドバーグからそう言っていただけるだけで十分です。俺は気にしていません」

「……ずっとこのままでいるつもりか?」

「ええ、そのつもりです。リンドバーグこそ、俺と関わらないほうがいいかもしれませんよ」

 どこか瞳に影をさした少年――アカリは、そう言って悪戯めいた笑みを浮かべるのだった。


 見覚えのない子どもがいるな、と思ったのがアカリに声をかけたきっかけだった。泥だらけのみすぼらしい格好。夕闇が世界を覆い始めていた。

「どこから来たんだ?」

 リンドバーグの質問に少年は質問で返した。

「どうして、私が外から来たとわかったのですか」

「これでも医者のはしくれでな。リンドバーグという。この村には医者が俺しかいないから、たいていの子どもを診てるんだ。ちなみにいまも急患を診た帰りだ。だから顔を見ればわかる」

 リンドバーグは笑う。

「そう警戒するな。医者としてお前の状況が見過ごせないだけだ。見たところ、ここ数日まともに食事もできていないんじゃないか」

 素直にうなずく少年。

「よければうちまで来ないか? 簡単な食事ならごちそうしてやる」

「しかし」

「遠慮するな。もし気後れするのならあとで働いてもらってもいい」

 少し考えるそぶりを見せて、「わかりました」と少年はうなずいた。

 その反応に満足して、リンドバーグは歩き出す。少年も後ろをついてくる。

「満足な食事もしていないのに足取りはしっかりしている。たいした精神力だな」

「いえ」

「ところで、俺は名乗ったがまだお前たちの名前を聞かせてもらえてないんだがな」

「アカリと言います」

「そうか。それで最初の質問に戻るが、アカリはどこから来たんだ?」

「小河内という里からです。……知っていますか」

「小河内? いや、聞いたことがないな」

 近くの村のどこかだと考えていただけに、リンドバーグは首を傾げる。子どもの足でそう遠くから来たとは思えない。

「どこにあるんだ?」

「カフ山とシルトハーネ山の山間です」

 その答えに、リンバーグは首を傾げたままだ。アカリは補足する。

「あの、どちらもウル山脈に連なる山です」

 聞いた瞬間、「ウル山脈だって? ははっ」とリンバーグは笑いを漏らしてしまった。「面白い冗談を言うものだ。まあいまは詮索しないが、そのうち親元に帰ったほうがいいぞ」

 今度はアカリが訝しげな表情になる。その表情を見て、リンバーグは眉根を寄せる。

「……冗談じゃないのか?」

 こくり、とアカリはうなずく。

 リンバーグは顔を俯き気味にして少し考えるようなそぶりを見せたあと、言った。

「信じなくて悪かった。どうしてその里から出てこんなところに来たのか、よければそのわけを教えてくれないか?」

 アカリの説明する内容は荒唐無稽なものだった。集落が何者かに襲われ、数日かけてここまでたどり着いたのだと言うのだ。簡単に信じることはできなかったが、憔悴しきっているはずなのになお、泰然としている少年の姿を見て、リンドバーグは嘘だと断じることもできなかった。

 診療所にアカリを連れ帰ってからリンバーグが差し出したのは、野菜が溶け込んだ雑穀の入ったスープだった。最初は恐る恐るだったが、ひとくち口をつけてからはアカリは手を止めなかった。温かいスープが体を通って行くのがわかった。その温かみに、不意に涙が零れ落ちる。張りつめていたものが、切れた。

 リンバーグは少し目を見開いたが、微笑んだ。

「そうか。辛かったんだな」

 優しい声音に、また卓の上に涙が落ちる。

「食え、遠慮せず食え」

 それが、リンドバーグとアカリの出会いだった。

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