一章 ユナヴィール村
第6話 山麓は遥か彼方
山肌はすぐそこに見えるようで山麓は遠い。ツヅラ川を越え、ウル山脈の最南に位置するカフ山の麓にたどり着くには、健脚でも三日はかかる距離だ。
今日は北風が吹き下ろしている。南風が卓越すると山脈を越えられずに砂埃が大気中に滞留するが、北風の場だとそういった塵や埃といったものが南に流されていくので山脈の稜線がくっきりとする。視程が良いおかげで、山々の低いところが緑に覆われているのがよくわかった。一方上部は褐色の岩肌がごつごつとしており、森林限界高度の境界線がはっきりしている。
木こりの青年は、仕事場に向かいながら大きく伸びをした。よく晴れた良い日だ。山の上には羊のような積雲が浮かんでおり、頭上には、刷毛で描いたようなうっすらとした巻雲が漂っている。
「早いな、セイ。いまから仕事か?」
声のほうを振り返ると、知り合いの夫婦がいた。
「ええ」と木こりの青年はうなずく。「お二人は『北の台地』に行くんですよね」
「ああ。畑にな」
「お邪魔じゃなければ途中まで一緒しませんか」
「もちろん。そのつもりで声をかけたんだ」
わきに田園風景が広がる農道を三人は歩いていく。
セイが話しかける。
「アリサは留守番ですか、シュウさん」
「ああ、今日はちょっとな」
少し言いづらそうにしているシュウを見て、セイはシュウの妻であるアカネに目を向ける。すると、アカネは笑みを漏らした。
「父さんが腰をやっちゃってね。アリサには面倒を見てもらってるの」
「なるほど」セイも少し笑ってしまう。
アカネは小柄な体格に顔のつくりの小さい童顔で、実際の年齢よりもずっと若く見える女性だ。一方でシュウは彫りの深い顔立ち。意志の強そうな大きい目が特徴的で、肩幅が広く背は高い。
二人の良い部分を受け継いだ娘のアリサは、まだ子どもだが整った顔立ちで、将来は必ず美人になると村ではもっぱらの評判である。
「ヨキさん、まだまだ引退する気はないみたいですね」
「そうなのよ。いい加減自分の年を考えてほしいんだけど」
「元気ならけっこうなことじゃないですか」
「元気じゃないから腰を悪くしてるの。今日はアリサがリンドバーグさんのところに連れて行ってくれることになってるわ。これに懲りておとなしくしてくれればいいんだけど」
「あはは。かわいい付き添いがいれば、ヨキさんも無茶はしづらいんじゃないですかね」
セイの発言に、シュウがぴくりと反応した。
「セイ。もしかしてお前、娘に気があるんじゃないだろうな」
「へ? いやまさか」
「ならどうしてアリサが留守番かどうかを気にするんだ?」
アリサの可憐さと同様に、シュウの娘への溺愛ぶりも村では評判だった。
「それはただの世間話というか……」
「本当だろうな」
「え、ええ、もちろん」
「ならいいが」
ふん、と鼻を鳴らしてシュウはそっぽを向く。セイが反応に困っていると、アカネが顔を寄せて耳打ちをしてきた。
「私としては、歓迎なんだけどね。セイみたいな働き者なら、あの子にもぴったりだと思うし」
「いえ、アリサはまだ子どもですから」
「ふふ」とからかうような笑みを浮かべてアカネは距離をとる。
平和な一日となるはずだった。
いつものようにひとりで森に足を踏み入れたセイは、樹木を切り倒す作業に没頭していた。カツン、カツンという音が、一定の間隔で小気味よく響いていた。両側から切り込みを入れていき、切り込みの深さを塩梅することで樹木の倒す方向を決める。
その音が、突然途切れた。
ぞくりとした感覚が背筋を刺激し、セイは一瞬体を硬直させた。木々の隙間から見えてしまったのだ、異形の獣が。
すぐに正気に戻って、樹の幹の後ろに身を隠す。
心臓が早鐘をうっていた。
ざっ、ざっ、と足音が響いている。
心臓の音が聞こえやしないか、セイは不安を掻き立てられる。いつの間にか、樹の裏側に異形がいるのではないか。振り返ればすぐそこに……。ごくんとつばを飲み込む。すぐそこに、異形がいやしないだろうか。
呼吸の音にさえ気を遣い、セイは覚悟を決めて樹の幹から顔を出し、後ろの様子を窺った。異形の怪物は、先ほどとそう変わらない位置にいた。セイに気づいた様子はなく、ゆったりとした足取りで南に向かっている。やがて姿が見えなくなると、膝の力が抜けた。「はああ」とひそめていた息を深く吐き出す。……いや、などと気を抜いていたら実は正面に。と考えて振り返るが、正面にもなにもいない。
まわりになにもいないことを確認して、セイはつぶやいた。
「なんだったんだ、あれは」
もしかして、あれが『魔物』か? 話に聞いたことしかなかったが……本当にあんな生物がいたのか……?
あの禍々しい気配。気味の悪さと危険を感じずにはいられない。『魔物』と遭遇したのはこれが初めてだが、本能で理解した。
あれに触れてはいけない。
この場にいては危険だ。そう思って村に戻ろうとしたが、『魔物』が向かったのは村の方角だ。そこでセイははたと気づいた。この森から少し南に下ったところが「北の台地」だ。二人が危ないかもしれない。
でも、またあの『魔物』に出くわすかもしれない。足が震える。
「ああ、くそっ!」
セイは無理やり恐怖を押さえつけ、北の台地へ向かった。
台地へ登っていく大きい足跡を見つけ、焦燥が募った。まずい……まずい!
二段目、三段目と段々になっている台地を登っていく。いちばん上の五段目にたどり着いたとき、ブドウ畑の中にひとが倒れているのを見つけた。
「アカネさん!」
セイはすぐそばに行って小柄な体を抱え上げる。
「大丈夫……ですか」
声が尻すぼみになってしまう。明らかに、無事ではなかったからだ。アカネの顔は恐怖に歪んでおり、目の焦点が合ってない。
「あ、ああ……」とうめき声しか聞こえない。
セイは息を呑んだ。アカネの両足が、なかった。血がとめどなく地面に染み込んでいる。
「シュウさんは……」
あたりを見回そうとした瞬間、両足に激痛が走った。
「いっ……」
支えをなくした上半身が崩れ、顔が地面にぶつかる。
両足が熱かった。
「うあああああああっ!」
セイは痛みに絶叫した。
見れば両足がひざの上のところから切断されていた。涙が滲んだ。
近くにぴくりとも動かないシュウの姿を見つけ、そして、目の端でいまセイの足を奪ったであろう存在を捉えた。
激痛でしびれた頭でなんとか思考する。
こいつまさか、二人をそのままにして俺を釣ったのか? そして初めに足を潰したのは、獲物が逃げられないようにするため?
そこまで察したところで、セイは首筋になにか鋭いものが突き当てられたのを感じた。そこで彼の意識は途切れ、二度と目覚めることはなかった。
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