第5話 言葉にならない絶望

 焦りを覚える。ひとが流されている! 危険を承知の上でアカリはぬかるんだ斜面を下りた。さらに増水する前に急いで引き上げなければいけない。

 しかしそうはならなかった。近づいてようやく気づいた。肘から上がない。それは、肘の辺りから切断されたひとの腕だった。

 表情がこわばった。身がすくむ。

 なにがあった? 集落はいまどうなってる?

 アカリはすぐにもう一度斜面を登り、たまらず川の上流へと駆け出した。帰路を急ぐ。雨の匂いに少し腐臭が混じっている気がした。不安が、際限なく掻き立てられる。

 小河内にたどり着くころには、雨が上がっていた。


 ――目に飛び込んできたのは、いくつもの原型を損なった焼けた死体と焼け崩れた家屋だった。


 どこか現実感がなかった。悪夢であってほしかった。

 なんだ、これは。

 わけがわからない。

 だれか。

「だれかいないのか! なにがあった!」

 むなしく声が響き割った。反応する者はだれもいない。瓦礫の山の中にひとの姿を見つけた。旅の前に声をかけてくれた男だった。もう息を引き取っている。

 アカリはあたりを見回す。地面に臥し、ぴくりとも動かない人間の身体がいくつか転がっている。それぞれ確かめていったが、すべてがすでに冷たくなって腐り始めていた。

 動悸が激しくなる。そうだ、師匠は。

 アカリは走り出した。

 集落のはずれにある住み慣れた掘立小屋は、変わらないままだった。荒らされてはいるもののどこも崩れた様子はない。

「カイユ!」

 小屋の中にはだれもいない。師匠はいったいどこに。

 集落の周辺を駆けまわり、アカリはようやく師匠の姿を見つけた。集落の西側。林の中でカイユの死体は見つかった。右脇腹がえぐられ、左の腕は肩から失われていた。

 膝から力が抜けた。

 あたり一帯の樹木はなぎ倒され、地面はあちらこちらでえぐられている。『魔物』との戦闘が激しくなると、こんな具合になることがある。

「カイユ」と名前を呼んでみる。

 虚ろな目は光を失ったままだ。

「カイユ……カイユ!」

 そばに折れた刀があった。

 アカリは死体を抱えて集落に走る。心の奥底では死体とわかってはいたが、まだその事実を認められていなかった。

「だれか! だれか! カイユが!」

 だれも返事をしてくれない。

 雲間から光がのぞいた。その光は、無残になった集落の姿を無情にも克明に照らし出した。

 師匠の身体を足元に置くと、「うっ」とアカリは膝を地面について呻いた。喉の奥から酸っぱいものがせりあがってくる。旅の間はろくなものを口にしていなかったため、胃液しか出てこない。

 わけがわからないわけがわからないわけがわからない。

「う、ああ」

 雨に打たれた自身の身体も冷たくなってくる。がちがち、と歯がかみ合わない。言葉にならない絶望が、全身を覆う。

「あああああああっ!」 

 慟哭する。

 滲んだ視界。師匠の虚ろな目はなにも見ていない。

「ひぐっ」とアカリはしゃくりあげる。涙がとめどなくあふれてくる。

 アカリは立ち上がり、師匠の死体から背を向け走り出した。自分がどこに行こうとしているのかもわからなかった。ただただ現実から走って逃げて、ぬかるんだ地面に足をとられ派手に転ぶ。

 もう、立ち上がれなかった。地面に突っ伏したまま、少年は意識を失っていた。


 翌朝。

 目を覚ますと、アカリは掘立小屋へと続く坂道の上に倒れていた。身につけているたつつけ袴は泥だらけだった。全身がべたべたとする。

 頭がガンガンと痛んだ。どうしてこんなところで寝ていたのだろう。少年は道を登る。小屋の中では、きっと師匠が帰りを待ってくれているはずだ。しかし、小屋の中にはだれもいない。

 やがて意識が覚醒してくると、昨日自分が見たものを思い出す。

 いや、そんなはずはない。なにかの間違い、そう、悪夢を見たのではないか。

 そう信じて杣道を下るも、そこに広がっているのはなんら変わりない凄惨な光景。焼け落ちた家屋。道に転がる死体。師匠の身体も、昨日と同じ場所に転がったままだった。ふらふらとアカリは自分の住む掘立小屋に踵を返す。

 膝を抱えたまま一日が過ぎた。もう一度集落の様子を見に行く。集落は、壊れたままだ。さらに一日が過ぎ、ようやく少年は現実を認めた。もう、もとに戻ることはないのだ。

 空腹で腹が鳴った。ずっとなにも食べていない。

 ……もう、どうでもいい。すべて終わらせよう。

 林の中をかき分けて歩いた先は、切り立った崖の上だった。

 身を投げようとする。

 しかし、そのとき声が響いた。

『お前だけは死んではいけない』

 乾いていた涙が滲んでくる。

「ううっ」

 どうしても、あと一歩が踏み出せない。足が震える。

 アカリは嗚咽を漏らしながら涙を流した。

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