第3話 旅路は順調

 ここまで『峡谷』の深くに足を踏み入れたことのなかったアカリは、初めて見る光景にしばし目を奪われてしまう。ここが、話に聞いたヴァレー大圏谷か。あたりを取り囲む岩壁は劇場のようで、指揮者を取り囲むオーケストラを想起させる。いちばん奥では崖の裂け目からどうどうと水が流れ落ちて滝を成し、アカリは、まるで空に水路があってそこから水が落ちているような錯覚に襲われた。美しい光景だった。美しいからこそ、血の匂いがすることに強い違和感を覚えてしまう。

 視界が開ける分周囲を見渡しやすくなるが、それはアカリにとってだけでなく『魔物』にとっても同様だ。アカリは、『魔物』が近づいてくる気配にいち早く気づいていた。見つかってしまったらしい。三日目にして初めての遭遇。むしろ、ここまで運が良すぎたくらいだ。遠方から風が吹き荒れる。吹き抜ける突風を躱しながら、アカリは気配が近づいてくるのを察する。遠くに姿が見えた。そして次の瞬間、その気配はふっと目の前に現れた。

 速い!

 その『魔物』は腕を薙ぎ、アカリに爪を突き立てようとする。しかしアカリはとっさに後ろに下がりそれを回避する。間合いをとり、改めて『魔物』を見る。

 二足歩行で四本の腕を持った化け物。褐色の皮膚に、膨れ上がった筋肉。能面のような平坦な顔でつぶらな目をしている。鼻はない。そして口は醜悪な弧を描いている。わずかにひとの面影を残したその姿。

「『悪鬼あっき』か」アカリはつぶやいた。

 先述したように、『魔物』は生物が変質したものだと言われている。ここでいう「生物」には、「人間」も含まれる。『魔物』の中でも人間が変質してしまった存在を、特に『悪鬼』という。

 アカリは抱いた罪悪感を一瞬で圧し潰す。いまここで、それは不要な感情だ。ひとつ間違えれば命を失う。四本の腕をかいくぐり、アカリは杖を握る手に力を籠める。

アカリと『悪鬼』の身体の位置が入れ替わる瞬間、かちり、と音がした。

 それとほぼ同時。『悪鬼』は首から勢いよく血を吹き出しながら地面に倒れた。

アカリは数秒間、ぴくりとも動かなくなったその死骸を見つめる。人間のなれの果て。弔ってやりたい気持ちは山々だったが、のんびりしていると血の匂いにつられてほかの『魔物』が寄ってきてしまう。心の中で謝罪しつつ、アカリはすぐにその場所を離れる。

 三日目の夜を迎えた。『悪鬼』を殺すのは、これが初めてではない。だけど、殺したあとはいつも気分が悪い。

 その気分とは裏腹に、夜のウル山脈は絶景を見せてくれる。澄んだ空には目いっぱいの星が敷き詰められている。星雲は空を縦断し、ときには流星が瞬く。寝転がってじっと眺めていると、夜空が少しずつ表情を変えていくのがわかる。どれだけ夜闇に覆われていても、いつだって、それを照らそうとする存在はこんなにもいる。

 この場所のどこかに、『青竜せいりゅう』の亡骸がある。その骨、角や牙でもいい、ここにたどり着いたという証拠をなにか持ちかえればこの旅も終わる。

 血なまぐさい匂いは勘弁だが、この光景が見られるのならまたいつか来るのもいいかもしれない、とアカリは思った。実際、アカリは幾度となくこの場所を訪れることになる。

 そして、あまりにも大きい存在を少年は失うことになる。

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