第2話 少年は旅に出る
翌日。まだ外は暗かった。
アカリは寝台から身を起こすと、足元の草履を探り当てて立ち上がる。腰のひもを絞ってたつつけ袴を整え、一度軽く伸びをする。そして寝台に立てかけておいた杖を手に持ち、足元に用意しておいた荷を肩にかける。
外に出るとまだ日は昇っておらず、肌で空気が湿っているのがわかる。霧は濃いらしい。音を立てずに掘立小屋を出たつもりだったが、背中に声がかけられる。
「無事に戻ってきなさい」
師匠だ。少年にとって唯一の家族ともいえる老人。
アカリは振り返らずに答えた。
「心配いらないよ」
今日、少年は旅に出る。ウル山脈を巡る旅から無事帰ってきたとき、少年は師匠であるカイユから一人前だと認められる。
そして一人前と認めるにあたって、カイユはひとつの課題をアカリに提示した。山脈を横断する際に選ぶ経路として、圏谷から岩壁を登って稜線に出る道筋がある。山脈を代表する峰に囲まれたそのU字谷はヴァレー大圏谷と呼ばれており、そこに、ある『魔物』の死骸が放置されているのだという。課題は、その死骸の一部、骨や牙など、その『魔物』だとわかるなにかを持ち帰ること。
いよいよこの日がきた。そう心中で思ったものの、ほかに特別な感慨はなかった。ずっと前から覚悟は決めている。アカリはいつもとなんら変わりのない足取りで出発した。
少年は小屋からキフユ川まで下ると、まずその流れに沿って谷筋をさらに下っていった。川岸の石に杖を突き、小気味よくコツコツと音を立てながら歩く。しばらくは両脇に常緑広葉樹が密集した変わり映えのしない景色が続いたが、その渓流はやがて北東の盆地へと出ていき、本流に合流する。
斜面の上からは、ツヅラ川が盆地を東西に横断しているのがよくわかった。すでに日は高い。
橋を渡ってツヅラ川の対岸に下りると、アカリは気を引き締めなおした。
この盆地をはさんでこちら側と向こう側の山では生態が異なる。向こう側のほうが、圧倒的に生息している『魔物』の数が多いのだ。ひとの住まう領域とそうでない領域を分断しているという意味を持ってか、ウル山脈は『峡谷の山脈』とも呼ばれる。
『魔物』――地域によっては『妖魔』などと呼ばれることもある――はふつうの生物が変質したものとされているが、『魔物』とそれ以外の生物との差異は実ははっきりしていない。故に『魔物』の定義も曖昧だ。
だがひとは言う。
――見ればわかる。
『魔物』の特徴として挙げられるのは、その凶暴性と危険性、そして、生息分布が限られているという点。『魔物』の生息地として世に認知されている場所のひとつが、ウル山脈とその近辺なのである。
眼前に広がる樹海の中に、アカリは踏み入っていく。常緑広葉樹の背は高く、陽光はほとんど差し込まないため空気はひんやりとしている。低木はない。ひとの手の入っていない、完成された森。
やがて渓流にぶつかり、その流れに沿って登っていく。水辺には苔が散見された。『峡谷』にのみ存在する白い苔である。神聖とも形容すべき光景の中に、血の匂いが混じっていることにアカリは気づいていた。風上は進む先である北。
避けるべきは『魔物』との遭遇である。よほどの大物でもなければ対処は可能だが、この旅には最長で十五日程度を見込んでいる。やむを得ない場合を除いて『魔物』と遭遇することによる体力の消耗は避けたい。『魔物』の気配はあちこちに感じられる。ときには迂回することを辞さずアカリは北を目指した。
日が傾いてきた。今日はここまでだろう。アカリは早めに野営の準備を始める。まだ明るいうちに乾燥した葉や枝を渓流の岸辺にかき集めてくる。
辺りは真っ暗だった。わずかに木々の輪郭が把握できるだけだ。時折風が吹くと、葉の擦れる音がさわさわと聞こえた。
師匠に口を酸っぱくして言われ続けてきたのは、「お前だけは死んではいけない」ということだった。アカリは十二歳。出自は奴隷で、カイユに引き取られて弟子となってから八年が経つ。アカリはいまだよく理解していないが、師匠は『守護者』という存在であり、アカリはその後継だ。『守護者』の悲願は、『峡谷の果て』と呼ばれる場所に行くこと。師匠は高齢で、アカリの身になにかあれば『守護者』をだれにも引き継げなくなるかもしれない。そうなれば『守護者』の悲願は成就しない。だからアカリは油断をしない。死なないために、できるだけのことをする。異常をいつでも知覚できるように頭の一部を起きた状態にし、アカリは眠りについた。
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