第3話 二丁目
JR埼京線を降り、東南改札を抜ける。ニュウマンの文字を見ながら、フラッグスビジョンのけたたましい音量の電子広告に目を向ける。高架橋を歩く。派手な緑色と白のカプセルホテルがある。その先にNTTビルがそびえ立っているのが見える。都庁よりも、NTTビルの方が新宿らしい、東京らしい。横断歩道からヴィトンの広告が見える。マルイの裏を通る。御苑の前の交差点を渡り、左に曲がって真っ直ぐ進む。ここにもスタバ。スタバにいる女はいかにも「仕事できます感」を出すために高い金を払っていると思う。適当なタイミングで左に進む。シャインマートが今日も営業している。昼間は人がいる気配も全く感じないくらい静かだ。なのに、夜は繫華街らしくクラブが光り輝く。電光掲示板でHIVの検査の広告が時間関係なく光っている。二丁目に行くには、本当は新宿三丁目駅が便利だと知っている。けれど、新宿駅を使ったほうが乗り換えをしなくてもいいので、行く時は十五分ほど駅から歩いている。ビックス新宿ビルの真下にあるC8出口から真っ直ぐ進むと無数にゲイバーがある。この前、夜に来たときは40歳手前の「ホゲた」五、六人のゲイらしき人たちがバカでかい声で話していた。よく行くゲイバーは通りから一本外れた雑居ビルの二階にある。すっかり顔なじみになった“ママ”に、鏡月のジャスミン割りを頼む。リストカットはしない。けれど、アルコールで「自傷行為」をする。さすがに刃物は表面に傷をつけてしまう。酒なら外から見てもよくは分からないし孤独な心を満たしてくれる。嫌な気持ちを一瞬だけ忘れさせてくれる。だから、吐くまで飲んでしまうことも多い。店子や他のお客さんと話しながら飲んでいると、わざわざここまで来て冷やかしに来た四十代くらいの“ノンケ”のおじさんが酔っぱらっているのだろう、叫ぶような声量で話していた。
「あくまでゲイはマイノリティの中ではマジョリティなんだから他のセクシュアリティの人に“配慮”しなきゃねぇー? 発展場に金払って行くのはまだしも、そこら辺の公衆トイレでセックスしちゃうんだからねぇー? 周りの迷惑考えろ、って感じだよなぁ ?」
“ママ”が「お客さん、そのようなことを言うのは控えてもらえますか?」となだめようとした。しかし、「じゃあ、どうしろっていうんだよ? レズビアンもゲイもバイセクシャルもトランスジェンダーもクエスチョニングもアセクシャルもノンバイナリーもパンセクシュアルも全員に“配慮”しないといけないってことになるだろ? “こっち”はお前らを“配慮”してあげてるの。今は“多様性の時代”だろ? 文句言うなよ! なら女のマンコにチンコ入れれるようにしろよ! 」とまくしたてるように、おじさんは激昂した。
ママや店子も完全に頭に血が上ったようだ。ママが「お代は一切要りませんのでお帰りください。」と言った。「もうこんなところ一生来ねぇよ! クソオカマども !」と叫びながらおじさんは店を出た。お客さんも口々に再び話し始めた。たしかに、あのおじさんが言っていたことは、少しくらいは分かるような気がする。性に奔放なゲイは多いのは事実だし、”ノンケ“男性を性的に誘惑して無理やり”こっち“に引きずり込もうとするゲイも一定数いるだろう。それに、「多様性」という言葉は文字通り色々な物事があることを認め包摂しているようで、「自らの意思に関わらず全ての物事を排除せず認めなければいけない」ことと同じ意味なのかもしれない。もし仮に、「自分が生理的に受け入れがたい人」がいるとしても、「多様性」「インクルーシブ」という言葉で有無を言わせず「認めさせる」方向に強制的に持っていくというはあり得る話なのかもしれない。
一つこの出来事に関連して思い出したことがある。前に一回だけ、わざわざ大学の授業をサボってNPOがやっているLGBTQ向けの交流会に参加したことがあった。新宿御苑の中を周りながら、話をして交流していくというものだった。“もしかしたら自分と同じような年齢の人がいるかもしれない”というほんの少しの期待があったけれど、当然のことながら参加していたのは、自分以外は年上の人だった。平日の昼間だったし、学生はいないかもしれないと分かっていた。けれど、年の近い友達ができたらいいなと少なからず思っていた。参加していた人は、見た目は普通そうな人もいるけど、変な見た目の人禿げている人もいれば、男“なのに”メイクをしていた人もいた。早口で何を言っているのか分からない人もいたし、声が小さすぎて話が何も聞こえない人もいた。「こんなふうに思ってはいけない。差別になってしまう。」と思った。けれど、社会のモラルよりも自らの感情が上回って支配していた。
ゲイの自分でさえ、こう思うのだから社会的に「マジョリティ」だと思っている人は「多様性」という言葉や多様な価値観を受け入れることはマイノリティの当事者が受け入れるよりも何倍も難しいと思う。そりゃあ、頭では「全ての人を受け入れるべきである」と理解してはいるけれど、本当に心の底から理解するにはまだまだ時間がかかると思う。トイレの問題とか「面倒くせぇなぁ」と心の中では思う。平和なんて見かけだけ、平等なんて言葉だけだ。マイノリティには「座る椅子」はない。マジョリティに比べて真っ当な充分な権利はないような気がする。「いるべき場所」に追いやられてしまう。あるべき人が、そこにいるべき人が、そこに帰るべき場所がある人が、それぞれ自らの場所に行き、帰ってくる。けれど、そんな場所は何もない。というか、例えばサラリーマンが会社に行ったり、子供が学校に行ったり、家に帰らなくてはいけなかったり、そんなことが「正しい」とされているが、そんな「正しさ」は存在しているのだろうか。そんな「社会の正しさ」はとっくに崩れ去ってしまった気がする。
利権がどうとか顔も何も分からない卑怯な奴らが言ってくるが、どこをどう見たらそんな風な考えになるのか逆に教えてほしいくらいだ。なぜいつもSNSでの主張を見ると議論が複雑になっているのか。どうしてそうなるのだろうか。どうしてSNSには極端な主張をする人が多いのだろうか。誰でも、好きな人と、色々な考えの人ともコミュニケーションを取ることができるという「良い面」があるから、広まっていったはずなのに。他者の意見を封じ込めて、偏った考え方に毒される人たちが集まった「地獄」になってしまった。「ユートピア」になるはずだったのに。
店子同士でなにやら話をしていた。店子の人たちとは年齢が近いこともあってか、話が合いやすい。
「何話してるの? 」
「いや、さぁ、たまたまツイッターを見てて、このオバサンの記事があって。なんかキモイなぁ、って思ってねぇ。」二人の店子が苦笑いするように呆れていた。
「ん?どんな記事?見せてよ。」
「はい、“ゆうちゃん” !」
「その言い方やめてよ。」と笑いながら、スマホを借りた。記事には、「私たちは性的マイノリティの人でも働きやすい環境に! 」とタイトルがあった。どこかのベンチャー企業の若手女社長が「私たちはセクシュアリティや様々なルーツを持った様々な人が働きやすい環境を整えるよう心がけています。」と語っていた。
「この女なんて、“私たちは最先端ですよ”って、私たちのことをマジョリティの“やってる感”を見せるための道具“としか思ってないんだから。まったく嫌になるわよ。」と一人の店子が言った。そして、もう一人の店子が、「そういえば! 」と思い出したようにネットニュースの記事をスマホで私たちに見せた。国会議員が性的マイノリティに対して差別的な発言をしたものだった。「ほらね、どんなに声を上げても何も社会は良くならないし進歩しないじゃない」ともの悲しそうに小さく呟いた。
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