第37話 さよなら

 伊月が目覚めたのは見覚えのある部屋だった。上半身を起こすと、ベッドに寝かされているのに気づいた。

 ここはどこだったか……。

 意識が覚醒していくにつれ、先日の記憶が甦った。ここは安都真たちが寝泊まりしているウィークリーマンションだ。相変わらず生活感がない空虚な室内で、自分は本当に助かったのかと不安になる。生きていることを確かめるために、掌を見つめて握ったり開いたりを数回繰り返した。

 立ち上がろうとしたが、まだ足に力が入らない。全身を強く打ったせいだろう、体のあちこちが痛むので、今さらながら顔をしかめた。

 玄関が開く音がした。入ってきたのは玲佳だった。ひどく沈んだ顔をしており、いつもの快活な雰囲気が影を潜めていた。


「気がついた?」


 つい先日にも似たようなやり取りがあったなと思いながら、玲佳に顔を向けた。


「おかげさんでな。俺はどれくらい気を失ってた?」

「あの出来事から、もう三日も経ってるよ」

「三日っ?」


 前回も気を失ったが、三日間も意識を失っていたとは。それだけ今回の呪いは桁外れだったということか。改めて二人に感謝の念が湧いた。二人といえば、安都真はどこにいるのか。自分以上に傀儡師と戦ってくれたのだ。彼こそ無傷じゃないはずだ。


「安都真は?」

「………………」


 玲佳はコンビニ袋をベッドの傍らに置き、ソファに座った。袋にはおにぎりとサンドイッチ、それにペットボトルの緑茶と缶コーヒーが入っていた。


「あれから大変だった。阿比留の死体を放置しておくことはできないし、かと言って警察に駆け込んだって説明なんかしようがないし…。だから、公衆電話から匿名で通報しておいた」

「あの人形だらけの家を見たら、驚くだろうな。阿比留にしたって、死後何日経っていたんだかわかりゃしない。死体を動かすほどの呪力なんて、思い出すだけでぞっとするぜ。結局、傀儡師は誰だったんだ?」

「安都真が残されたビスクドールから手繰ったんだけど、たどり着けなかった。おそらく、傀儡師が製作したのは花婿と花嫁のビスクドールだけで、招待客は阿比留紫星の手によるものだろうから。そして、花婿は跡形もなく砕け散っちゃったし」

「…そうか」

「可能性の話になるけど、昭和に鬼才と謳われた神谷真人かみやまことってドール作家がいたらしいの」

「うん?」

「すごくリアルな作りで、その世界では第一人者で、羨望や称賛の声が引きも切らなかったって聞いた。神谷は名声を恣にしていたんだって。けど、三十半ばで自殺しちゃったって」

「自殺? なんでまた」

「結婚が決まっていた相手が火事に巻き込まれて亡くなられたそうよ。しかも、その火事ってのが放火らしくて……。神谷はもうほとんど半狂乱で、何ヶ月も制作室に閉じ籠もってビスクドールを作り続けたらしいんだけど……」

「けど……?」

「ある日、首を吊って自殺したんだって」

「あのビスクドールは、その神谷って奴の似姿ってわけか」

「だから、飽くまで可能性の話。真相は藪の中ね」

「婚約者が悲惨な死に方をして、世を儚んでの自殺か。世界中に呪いをばら撒いてやろうって気になるかもな」

「可能性、ね」


 玲佳は釘を刺すが、伊月は間違いないだろうと思った。花嫁や結婚に対する執着が凄まじかったし、ビスクドールに呪いを込めるというやり方にも符号を感じた。人の執念の底知れなさに、怖気を誘われた。

 玲佳が静かに立ち上がった。


「レンタカーは心配しないで。ちゃんと返却しておいたから」

「え? だっておまえたち免許が……」

「免許は持ってないけど、二人とも運転はできるの。今まで色々あったし」

「危なっかしいマネするな。白バイに停められてたら、なんて言い訳してたんだよ」


 玲佳は口元を上げて微笑む。その笑顔はなぜか弱々しかった。


「この部屋、今日一日で契約が切れるから、起きられるようになったら帰ってね」

「ああ、それはいいんだけど……。契約が切れるって? おまえたちはどうするんだ?」

「わたしたち、行くわ」


 胸がざわっと波立った。ここに至って、玲佳の様子が単なる疲労からくるものなんかじゃないと察した。


「行くってどこへ? 安都真は顔を見せないのか?」

「…うん。もう教えることはないって」

「いや、いやいや…。それはないだろ。レッスンが終わったから、はいさよならって…。そんな薄っぺらいつきあいじゃないと思ってたのは俺だけか?」

「………………」

「あいつはどこにいるんだ? とにかく会って話を……」


 伊月は立ち上がろうと床に足をついたが、その姿勢で動けなくなった。玲佳の目からポタポタと涙が零れていたからだ。

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