第36話 解放の時

「いたなぁっ!」


 目当てのビスクドールからは、尋常ならざる怨念が立ち昇っており、周囲の景色が歪んで見えるほどだった。


「てめえっ、よくも俺のダチをっ」


 伊月は破魔札を片手に飛び掛かろうとしたが、途端に体が硬直した。関節という関節がなくなってしまったみたいだ。五百城家で体験した金縛りよりも強力で、指一本動かせなくなった。玲佳も同様らしく、苦悶の表情を浮かべて動けずにいた。


「てっ、めっ…!」


 伊月は渾身の力を込めて縛めから脱出を試みたが、気合いでなんとかできる力ではなかった。


「うっ!?」


 頭の中に靄が流れ込んできた。言葉ではないが、この世のすべてを怨む呪詛であるのはわかった。暴力的なまでに圧倒的な深淵の闇だ。このままでは玲佳まで呪われてしまう。


「ああああーっ」


 絶望が混ざった抵抗の雄叫びを上げた伊月をすり抜け、一本の小刀が空気を斬り裂いた。


「っ!?」


 小刀は一直線に呪主のビスクドールを目指し、見事に額に突き刺さった。顔面にヒビが入ったと同時に真っ二つに割れて、視覚できるほどの黒い霧が溢れ出す。

 ふっと体が軽くなり、伊月の全身の硬直が嘘だったように解けた。振り向くと、満身創痍となった安都真が息を切らして立っていた。


「安都真っ」


 玲佳が歓喜の声を上げた。


「ギリギリセーフってところかな」

「…て、てめ~。ボロボロじゃねえか」

「きみたちが呪力を分散させてくれたおかげで、縛めから脱出できた。でも、僕がいなきゃ、まだ危ういな」

「うるせえっ! 動けるようになってたんなら、さっさと上がってきやがれっ」


 おおおぉおオおおぉおォおぉぉおおオォおぉおォ~っ。


 地響きにも似た不気味な絶叫が響き渡った。ビスクドールの割れた顔が粉々に砕け散り、霧が一気に量を増した。黒い怨嗟の激流だ。


「稀李弥っ」

「おうっ」


 伊月は破魔札を握りしめ、ビスクドールの体に思いきり拳を叩きつけた。途端に破魔札が発光を始め、ビスクドールから夥しい量の黒い霧が吐き出され続ける。反動でビスクドールの手足が滅茶苦茶に動き回り、まるで苦しみに悶え暴れているように見えた。


「てめえの負けだっ。怨みなんかに執着してないで、さっさとあの世に行きやがれっ」


 怨毒の濁流に飲み込まれそうになるのを必死に堪えた。歯を食いしばり、両腕に力を込める。このまま暗黒に飲み込まれて死を迎えるのではないかと絶念しかけたが、ふいに霧の放出が止まり、静寂に包まれた。怨念が出尽くしたのだ。伊月の手の先には、顔を砕かれ、四肢が千切れかかっている無残なビスクドールが横たわっていた。


「…終わった?」


 伊月が緊張を解いた瞬間、芥と化したビスクドールが、淡く発光し始めた。


「稀李弥っ 離れろっ」


 魔障の暴発。それ以外の形容ができない現象だった。この世にしがみついていた傀儡師が、最後の執念で伊月たちを道連れにしようとしている。逃げ出すには機を逸した。直感的に悟った伊月は、ビスクドールに覆い被さった。


「稀李弥っ!?」

「稀李弥ぁっ!」


 二人の叫び声を背中に受ける。視界のすべてが真っ白に染まり、物凄い衝撃を全身に受けた。全身がバラバラになったと思うほどの強い力で弾き飛ばされ、視界だけではなく意識も濃霧の中に溶けて消えた。


「稀李弥っ!」

「ねえっ、起きてっ。起きなさいよっ」


 安都真と玲佳の悲鳴に近い声が頭に響き、徐々に意識が浮上していくのが自覚できた。どうやら、死んではいないらしいとわかると途端に息苦しくなり、伊月は大きく口を開けて酸素を貪った。立ちくらみのように頭がふわふわする。


「なんて無茶をするんだ」

「……俺は助かったのか?」

「大量のビスクドールがクッション代わりになったんだ。傀儡師の招待客がきみを守ってくれた」

「皮肉なもんだ。けど、お山の大将ってのは最後は配下に裏切られるもんだ。いい教訓だな」

「これで本当に終わったの?」


 玲佳はまだ心配そうだったが、安都真は力強く頷いた。


「もうなんの呪力も感じられない。傀儡師は四散した。稀李弥にかけられた呪いも消滅している。すべて終わった。かなり強引なやり方だったけど、稀李弥の執念勝ちってところかな」

「冗談言うな。あんな凄まじい怨念よりも強い執念なんて……」


 苦笑を漏らしながら吐いた虚勢はそこまでしか出なかった。生き延びたことと呪いから解放された安心感が全身を麻酔のように駆け巡り、視覚も聴覚も次第に薄れていった。それは微睡みに誘われるような心地好い意識の後退だった。

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