第32話 出迎える人形
駐車してから一時間が経過した。空はどんよりと曇っており、伊月の不安を映し出しているようだ。ゆっくりと流れる雲を、己の運命と重ね合わせる。
曇ってはいるが降るような空模様じゃない。雨にならない限りは地面に叩きつけられることはない。いつまでも漂っていられる。どこまでも流れていける。
「そろそろ行こうか」
安都真の静かな声が、戦闘開始を告げる砲声に聞こえた。覚悟を決めろ。どんな結果になろうが、あと数時間でケリがつく。
安都真を先頭に阿比留邸まで歩いた。もっと詳細な打ち合わせをしなければならないと思うのに、言葉が生まれてこない。喉の奥に引っ掛かっているのではなく、頭の方の活動が鈍くなっているのだ。
一歩近づくごとに悪臭が強くなっていく。おそらく、霊力がない人でも避けて通るくらい強烈なニオイだ。翔太が阿比留邸に行くと必ずダルくなるとぼやいていたのは、この瘴気に当てられるからだ。
アンジュの車はすでに消えていた。改めて観察すると、阿比留邸は広かった。六十坪はありそうな昔ながらの日本家屋だ。木造二階建てで一人で住むには持て余す広さだ。きっと使われていない部屋がいくつかあるに違いない。
安都真がインターフォンを押して、来訪を告げた。もう引き返せない。引き返すわけにもいかないのだが、敵地に乗り込んだ緊張感が全身を貫く。
「正面から入るのか?」
「忍び込んだら不法侵入だよ」
「そりゃ…そうだけどさ……」
今までは依頼者に招かれるケースがほとんどだった。こちらから乗り込むことなどない。伊月の脳裏に、先日出会った自転車の少女が浮かんだが、瞬時に打ち消した。今は目の前に集中しろ。文字通り命懸けなんだ。
二回、三回とインターフォンを押したが、反応はなかった。屋内から軽やかな呼び出し音が聞こえるから、壊れてはいない。
「出ないね…」
玲佳の呟きが虚しく戸口に落ちる。
モニター越しに見慣れない男女を見て、訝しく思ったか。最近では見知らぬ人物の来訪を、居留守でやり過ごす人がたくさんいる。阿比留もそんな一人か。悪質な訪問販売や執拗な勧誘が後を絶たない結果だ。たとえ居留守を使われたとしても、このまま帰るわけにはいかない。
「裏に回ろう。開いてる窓があるかも」
「ちょっと待って」
伊月が前進するのを、安都真が引き留めた。彼が戸に指を引っ掛け軽く力を込めると、引き戸はあっさりと開いた。普段から不用心なのか、伊月たちの来訪を知っての上なのか、判断がつかなかった。ゴミ箱の蓋を開けたみたいに、悪臭が一気に濃厚になった。あまりの密度に後退りしたくなる。
安都真は引き戸に手を掛けたまま動こうとしない。まばたきもしないで、薄暗い廊下の奥を凝視している。
「どうした? 行くんだろ」
安都真は伊月を見つめ、弱々しく訴えた。
「……僕だって怖いんだ」
伊月は衝撃を受けた。そして、自分の浅はかさを思い知った。
ベテランの猟師だろうと、絶対に勝てる保証はない。ほんのちょっとの運の流れで、簡単に狩る者から狩られる者に逆転する。どれだけ万端の準備をしようが、熊や猪の顎に屠られる可能性はゼロにはできないのだ。安都真の見事な調伏や達観した物腰を何度も見てきたので、当たり前のことを失念していた。
恐怖を喰え。弱気を噛み砕け。どんなに凶悪だろうが、相手は人を呪うしかできない懦夫だ。生き残るために立ち向かう俺が負けるわけがねえ。
伊月は決めた覚悟の上を踏み固めて、さらに強固にした。
「いいぜ。俺が先頭に立つ」
一歩踏み出そうとするのを、安都真が遮った。
「いいや。先頭は僕だ。弟子の後ろに隠れる師匠なんてかっこ悪いだろ」
安都真は靴を脱いで上がり込んだ。何気なく見たが、靴が一足も出されていない。不自然だ。人が住んでいる以上、日頃から使う靴くらいは並べられているはずなのに。
「…………」
「なにやってんの。行くよ」
「あ、ああ…」
伊月と玲佳も続いた。廊下を進むと、屋内の異常さが際立っていった。
「おい…これは…」
「…なかなか奇々怪々な光景だね」
「なかなかなんてもんじゃないよ。かなりキモいって」
廊下は埃まみれで、何度か往復した足跡がくっきりと残っていた。これは翔太の痕跡だろうか。何ヶ月も掃除されていない様子の汚れ具合にも驚いたが、それ以上に不気味だったのがビスクドールだった。
所々にビスクドールが置かれており、奥に進むにつれ、その数が多くなっていく。一体一体は可愛らしい人形でも、夥しい数に囲まれると不気味さの方が先に立つ。屋内は薄暗いが、所々に陽光が当たり、光が当たっているビスクドールは浮き上がって見える。大量のビスクドールと明暗の差が奥行きを曖昧にさせ、捩れた幻覚を見せられている気分だった。
「ぜんぶ、阿比留が作ったもんなんだろうね……」
さすがに玲佳も緊張している。家族に捨てられ、黒い憎悪を燃やし人形に囲まれて暮らす中年の男を思えば、不穏さを感じ取るなという方が無理だ。
「しっ」
安都真が立ち止まった。彼の奥からは、ガラスを通過して灯りが漏れている部屋があった。この家で唯一照明が点けられている部屋だ。そして、その中からガサガサとなにかが蠢く気配があった。伊月はひりつくほど喉が渇いているのに気づいた。喉を上下させるが、咽頭がくっついて閉じてしまったかのように唾が上手く飲み込めない。
「ここが作業場か?」
安都真は二人を見つめた。行くぞと目で訴えているのだ。二人は同時に頷いた。
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