第33話 傀儡
そろそろと引き戸を開けると、そこにはこれまで以上に戦慄を誘う光景が飛び込んできた。部屋中にビスクドールが並べられていた。足の踏み場もないとはこのことだ。天井まで積み上げられたビスクドールで、壁は埋め尽くされており、圧迫感が物凄い。作業机の前で、くたびれきった男が黙々と人形制作に没頭していた。人形以外は瞳に映しておらず、ひどく虚ろだった。それなのに、ただならぬ威圧感で周囲の空間が歪んで見えるほどだ。すでに狂人の域にいるのは明らかだった。
シュッ、シュッ、シュッ……。
サンドペーパーで頭部を一心不乱にヤスリ掛けをしている乾いた音が、室内を通過する。
こいつが呪いの主……、阿比留紫星?
伊月はゴクリと唾を飲み込んだ。安都真はさり気なく、阿比留を刺激しないが存在は主張する動作で彼に歩み寄った。
「突然すみません。僕は南砺安都真といいます。実はあなたが製作したビスクドールのことで伺いました……」
阿比留の様子を伺う、慎重な言い方だった。阿比留からの反応はない。見知らぬ人物が家に上がり込んでいるというのに、振り向こうともしない。この無反応だけで、彼の異常性を雄弁に物語っていた。
シュッ、シュッ、シュッ。シュッ。
「なに? このおっさん……」
玲佳が唾を吐くように独り言ちた。対面すら拒む阿比留に嫌悪感を抱いたのだろう。安都真は阿比留に見えない角度で小刀を構え、ゆっくりと室内に踏み込んだ。伊月も静かに破魔札を取り出す。
手を伸ばせば触れることができる距離まで近づいた
シュッ、シュッ…。
「これは……」
安都真が驚愕して止まった。彼らしからぬ狼狽振りに、伊月の寒慄は一気に爆ぜた。
「おいっ、どうしたっ」
「来るなっ」
安都真の制止を振り切って、伊月は阿比留の肩を掴んで強引に振り向かせた。
「この野郎っ、人の話を聞きやがれっ」
「稀李弥っ」
態勢を変えられた阿比留は、なんの抵抗もなく崩れ落ちた。椅子から落下した衝撃を受け止めて、数体のビスクドールが割れる。玲佳が短く悲鳴を上げた。
伊月も悲鳴を上げたかったが、くぐもって上手く声を発せなかった。一気に総毛立ち、後退った。悲鳴の代わりにみっともなく喚いてしまった。
「おいっ、なんだこれはっ? いったいなんなんだっ」
「死んでいるっ。彼はすでに死体なんだよっ。稀李弥っ、離れろっ。もっと離れるんだっ」
安都真が伊月を突き飛ばした。尻餅をついた伊月を玲佳が助け起こす。安都真は伊月を突き飛ばした姿勢のまま硬直していた。
「安都真っ!?」
室内を漂っていた念の雲が豪雨に変わり、三人に降り注いだ。伊月は全身が粟立つのを感じ取り、自分がハリネズミになったかのような感覚に襲われる。
「…僕のミスだ。この怨念は阿比留のものなんかじゃない。こいつは呪いを拡散させるために動かされていただけだ。こいつこそ人形だ。傀儡師に操られている操り人形に過ぎない」
安都真は苦悶の表情を浮かべながらも、迫る呪力を押し返そうとしていた。
「どうするっ。どうすればいいっ?」
予想外の展開に、伊月は取り乱してしまった。
「本物の傀儡師を探すんだっ。こいつの目的は、人形に怨念を込めることで世界中に呪いを拡散することだ。そのために阿比留紫星を作り手に選んだ。きっとこの家に潜んでいるっ」
「おまえはっ?」
「僕はここで呪いの拡大を食い止める。死体を動かすほど強力な呪力の持ち主だ。ここで止めなければあっという間にこの家全体が冥府と化す」
「おまえ一人じゃっ」
「行けっ、稀李弥っ。玲佳っ。おまえも行くんだっ」
「安都真っ」
立ちつくす伊月の腕を玲佳がぐいと引っ張った。
「行くよ。安都真なら大丈夫」
「けどっ」
玲佳は伊月の頬を思いきり引っ叩いた。
「ここでもたついてたら、それだけ安都真が危なくなるっ。行くよっ」
玲佳が駆け出す。その背中を追う前に、伊月は安都真に視線を投げた。
「僕は大丈夫だよ。玲佳を守ってくれ」
顔中から汗が噴き出しているが、安都真の目は飽くまで力強く涼やかだ。気の利いた声を投げ掛けたかったが、言葉が浮かんでこなかった。せめてもの思いで、目に力を込めて了解の意を示した。安都真も伊月の目をまっすぐ見つめ返す。意思が通じたのを確信して、伊月は玲佳の後を追った。
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