第30話 ウインカーはお早めに

 伊月たち三人は、フィットに収まってアンジュを見つめていた。運転席には伊月、助手席に安都真、後部シートには玲佳という配置だ。玲佳は三人は掛けられるシートを一人で使えるのをいいことに思いきり足を伸ばして寛いでいる。一昨日、電車の中で安都真が妙なことを言ったから、伊月は彼女を気にしてしまった。安都真の提案を真に受けるわけではないが、一度意識し出すとどんどん深みにはまっていく。背中が熱くなって汗ばんでいる。空調が効き過ぎているだけだと自分を納得させ、さり気なく温度を下げた。

 時刻は午前八時だった。一昨日の翔太の帰宅時間と、翔太が八王子までと漏らした材料から割り出した時間だ。おそらくはもっと遅い時間、十時くらいからでも大丈夫だと思うのだが、慎重を期しての早めの行動だった。それに、自宅でまんじりと時間が過ぎるのを待っていたら、頭がどうにかなってしまいそうだ。

 安都真たちを拾ってから、ガソリンを満タンにした。昨日のドライブだけではそれほど減ってはいなかった。ガソリンメーターはまだ三分の二ほどの残量を示していたが、これも用心のためだ。その後、コンビニエンスストアでおにぎりと緑茶を買った。レジで対応してくれたのはアジア系の外人でだった。最近では珍しくもなくなったが、このときは日本という異国に来て生活するのはどういう感じなのだろうかと、妙にしんみりした気持ちになった。

 八時はさすがに早かったようで、アンジュの車が動き出す気配は一向に訪れない。一箇所に何時間も停車しておくわけにもいかず、二十分おきに移動させた。その際、見逃さないように一人を降ろす必要があるのだが、その役目は玲佳が買って出てくれた。

 高速道路に乗るのはわかっていたので、移動する方向も決まってくる。後れを取らないよう、車体は常に新宿方面に向けて停まった。五回目の移動をしたとき、空腹を覚えて袋からおにぎりを取り出した。具は辛子明太子だ。


「おまえも食っとけよ」

「僕は後でいい。高速に乗ってからでも食べられるから」

「そうか。そうだな」


 たしかに、運転は伊月にしかできない。高速道路に乗ったら、ノンストップで八王子まで行くかもしれないのだから、今のうちに済ませておくのが正解だ。

 こんなコンビニのおにぎりが最後の飯になんかなるなよ……。

 できるだけ味わおうとしたが、味覚が麻痺したみたいだった。咀嚼して無理やり飲み込んだ。茶は喉を湿らす程度にした。探偵でなくとも、尾行中は水分の摂取は控えた方がよいことくらいはわかる。

 食事を終えると、改めて緊張の度合いが濃くなった。心臓の鼓動を嫌になるくらい意識してしまう。

 G線上のアリアが流れた。安都真が着信音に設定しているメロディだ。安都真は素早くスマートフォンを取り出し、スピーカーのアイコンをタップした。途端に玲佳の声が飛び込んできた。


「来たよ。今乗り込んでエンジンを掛けた」

「わかった。玲佳もこっちに来てくれ。タコみたいな滑り台がある公園だ」

「もう向かってる。あいつもすぐに出ると思う」


 会話が終わるとほぼ同時に玲佳が車内に滑り込んできた。

 

 玲佳が乗り込んでから一分も経たないうちに、翔太が運転する車が横をすり抜けた。伊月たちのフィットなど気にも留めない様子で通り過ぎていった。


「よし、行くぞ」

「落ち着いていこう」


 伊月は怪しまれない程度の距離を開け、ぎこちない尾行に入った。


 甲州街道を走り、初台から首都高に乗った。高速道路を使うのはわかっていたので、ここまでは予想通りだった。翔太の運転が荒くないのは助かった。首都高はカーブが多く、道路がビルとビルの合間を縫っていることから分岐が複雑だ。運転に不慣れな伊月には、ついていくだけで冷や汗が吹き出た。他の車をぐんぐん抜かすようなスピードで走ったら、あっという間に見失っていた事態だってあり得た。アンジュの車にGPSを仕掛けるなど、もっと工夫を凝らすべきだった。

 翔太は一度もサービスエリアに寄らずにひた走った。目的地が八王子なら休憩を入れるほどの距離ではない。伊月にしても、その方がありがたかった。渋滞にはまることもなく、順調に西に向かって走り続けた。


「あ、降りるみたいだよ」


 玲佳が言う通り、翔太の車は八王子インターチェンジの手前で左車線に寄った。このまま進めば町田方面に降りることになる。ほどなくして、高速道路から離脱して一般道に降りた。


「どこまで行くんだろう?」


 つい不安が出た。八王子というのは高速道路を降りるまでであって、これから長距離を走る可能性を考える。一般道では信号があるし、ずっと直進するとは考えられない。高速道路のように一定の速度で走り続けるのも難しく、運転に自信がない伊月は、つい弱気になる。


「それほど遠くないと思う。一昨日帰ってきたのは一時過ぎだ。逆算すると、あと三十分も掛からないはずだよ」


 安都真は宥めるように言うが、一般道に降りてからの尾行はやりづらかった。先に浮かんだ心配もあるが、翔太の運転にはクセがあった。右に行くにせよ左に行くにせよ、信号が変わってからウインカーを出すのだ。ウインカーとは、本来他の運転手や歩行者に注意を促すための予告信号だ。それをギリギリまで出さないとは自分勝手にも程がある。いったいなにを考えているのだ。仄暗い怒りが込み上げ、つい悪態が吐いて出る。


「アホが…」


 走行中に気づいたが、翔太の他にも寸前までウインカーを点灯しないドライバーは何人もいた。今はこんな危険な運転が主流なのか。まさか、教習所でウインカーは一回か二回点灯させれば十分ですよと指導しているわけではあるまい。


「自己チューが増えたよねー」

「時代の流れだよ。文明が発達するほどに人間は愚昧になる。一部の賢人が大量の阿呆を生むんだ。そのうち礼儀や作法なんかもAIに教わるようになるよ」


 二人の悟ったような会話が耳に流れ込んだ。運転をしていない者は気楽なもんだ。

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