第27話 遠回りや立ち止まったりしても

 不穏さで空気が膨張しつつある中、カウンターの奥から、焦れ込む尖った声が飛んできた。


「ただいま。先生ってばひでぇよ。あと二体は明後日また取りに来いってさ。先生んちまで一時間は掛かるんだぜ。八王子までの高速代だって」


 店主がわざとらしい咳払いをしたが、愚痴は止まらなかった。


「馬鹿にできないってのに……」


 続いて、伊月たちと変わらない年頃の青年が姿を現した。店主と違って、そのまま遊びに出掛けられそうな砕けた出で立ちだ。青年は伊月たちに気づいて一瞬固まった。客がいるなんて思いもしていなかったのが、手に取るようにわかった。

 一目瞭然なのは思考だけではなかった。彼の全身から黒い怨念が漂っている。阿比留本人、もしくは阿比留が製作したビスクドールに接触したのは明らかだった。


「あ……、お客さんが来てたんだ」

「この人たちは客じゃない」


 店主は苦々しく吐き捨てた。そして、仕切り直すように声のボリュームを一段階上げた。


「もうお帰りになるところだ」


 言外に、作家についての情報はなにも教えられないと含んでいる。これ以上は押しても引いても無駄だと思わせる、頑なな口調だった。


「……わかりました。それでは、あなたから阿比留さんに連絡してもらえませんか?」

「わたしが?」

「はい。やはり、お嬢さんの現状は知らせた方がよいでしょうから」

「まあ……そうだな。それくらいなら……。けど、電話にも滅多に出ない人だからなぁ……」

「なに? 阿比留先生に言伝でもあるの? なら明後日行くから、俺が伝えてもいいよ」


 どうやら、青年は店主の息子のようだ。親子で店を経営しているのか。父親が表舞台で切り回し、息子は裏方で動いているといったところか。


「翔太、ここはいいから受け取った品だけでも片付けろ」


 店主は、横から口出しするなと言わんばかりに青年を睨んだ。


「それでは、よろしくお願いします」

「おい?」


 伊月は諦めきれなかったが、安都真はやんわりと退出を促す。その際、目でサインを送ってきたので、なにか考えがあるのだと気づいた。


「その前に少し休ませてくれよ。阿比留先生のところに行くと、なんかダルくなるんだよな」


 翔太と呼ばれた青年の声を背中で聞きながら、伊月たちはアンジュを後にした。



 店を出て十歩も歩かないうちに、伊月は足を止めた。


「まさか、このまま帰ったりしないよな」

「もちろん」


 安都真はあたりまえだといった感じで、伊月を見返した。


「気づいただろ? 彼が運んできたのは阿比留紫星の作品だよ」

「すぐにわかった。あいつもそんな話してたしな」

「普通なら運送会社を利用するもんだと思うんだけど、この店は違うらしい。阿比留がなるべく他人を介入させたくないのかもね」


 言いながら、ドミール千駄ヶ谷の駐車スペースに進んでいく。一階部分を利用したビルトインガレージだ。マンションの規模が小さいため、駐車台数も限られる。五台口の狭い駐車場だ。

 停められている車は三台で、そのうちの一台から強烈な悪臭が放たれていた。


「これだな」


 安都真は白いワンボックスカーの前で立ち止まった。店名さえ入っていない。不吉な匂いを放っていなければ、ごく一般的な自動車だ。伊月は近づきたくもなかったが、安都真は平然としている。掻い潜った修羅場の違いがこんなところでも出ている感じで、伊月は少し面白くなかった。

 安都真は徐にスマートフォンを取り出し、車体を撮影し始めた。とくにナンバーは三枚連続で撮った。


「僕は撮影が下手だから」


 誰にともなく言い訳をして、駅に向かって歩き始めた。


「車の写真なんか撮ってどうするんだ?」

「稀李弥は自働車の運転はできるかい?」


 質問を質問で返されたが、気取らない言い方で腹は立たなかった。ごく自然体な彼の態度は、得することが多いだろうと思わせる。


「そりゃできるけど、それがどうかしたか?」

「言ってたじゃないか。明後日また行くって」

「……まさか、尾行しようってのか」

「教えてくれないんじゃ、そうするしかないからね」


 安都真の言い方は、飽くまで軽やかだ。しかも車の運転の可否を訊いてきたからには、尾行は伊月にやらせるつもりだ。


「待てよ。俺は刑事でも探偵でもないんだ。尾行なんてやったことないぞ」

「大丈夫。人は後ろ暗いところがない限り、背後に注意なんて払わないもんさ。それに、僕は免許を持ってないんだ。玲佳もね」


 安都真は柔らかく微笑んだ。


「そんなに心配しなさんな。命が懸かっている人間は、大抵のことができるもんだよ」


 そう言われれば拒否することなどできない。他人事だと思いやがってと毒吐きたいが、彼らがつきあってくれなければ、阿比留紫星に近づく算段すら思いつかなかった。感謝こそすれ、腹を立てるのはお門違いというものだ。


「明日丸一日空いちまうな……。本当に大丈夫なのか?」

「遠回りや立ち止まったりしても、辿り着きたい執念があるなら必ず到達できる。それが人間の素晴らしいところだ。明日一日は冷却期間と受け止めればいいよ。焦りは確実さの最大の敵なんだから」


 まるで何十年も生きた老人みたいに、悠長なことを言う。この男が慌てふためくことなどあるのだろうか。伊月は安都真の底知れなさに、改めて興味を惹かれる思いだった。

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