第26話 やる気のない店主
二人が赴いたのは、JR総武線千駄ヶ谷駅からほど近い三階建てのマンションだった。新宿が近いせいか、垢抜けない生活臭よりもビジネスマンの忙しなさが充満している場所柄だ。
ドミール千駄ヶ谷と記された館名板は、マンション名さえわかれば十分だろうと言わんばかりに味気なく、建物自体も周囲の高いビルに埋もれて目立たなかった。それなのに、一階に構えている店舗はウィンドウが華やかに飾られており、通り過ぎる者は嫌でも注目せざるを得ないほどの異彩を放っていた。オーニングテントにイタリアーノ体でANGEとあった。ビスクドールはフランスやドイツが発祥だから、アンジュと読むのだろう。
「おい、ここ……」
「うん。まずいね」
可愛らしい装飾とは裏腹に、人を寄せつけない強力な邪気が放たれていた。これでは悪臭を放つゴミ屋敷と一緒だ。念を捉えることができない人でも、無意識に遠ざかってしまうほどに濃厚なニオイを発している。
「こんなんで商売が成り立ってるのか?」
「そこのところも含めて、話を聞くしかない」
安都真は店舗の扉を開けた。ドアベルが軽やかな音を奏でるが、店内はさらに陰鬱とした空気を漂わせていた。気を抜くと瞬く間に押し潰されそうだ。数多くのビスクドールが陳列されているる。強烈な悪臭を放っているのは、奥にあるガラスケースの中に収められている一体だった。
「いらっしゃいませ?」
奥から出てきたのは、でっぷりと太ったラウンド眼鏡の男だった。年齢は五十代くらいか。顔立ちは若々しかったが殆ど白髪になっており、印象に残る風貌をしていた。なんでこの店に客が? というような不思議そうな目で二人を見つめている。
「すみません。客ではないんです」
安都真が言うと、店主はいかにも納得した感じで弱々しい笑顔になった。
「ああ、そうでしょう……。そうですよね。どうかされました? 道に迷いましたか。ここら辺ごちゃごちゃしてるから……」
最初から商売をする気がない態度に、伊月は呆れた。店舗の汚染された空気に客が寄りつかないので、もう諦めの境地なのだろうか。
「わたしたちは五百城さんの代理で来ました」
「五百城さん……」
「阿比留紫星のご家族だった母娘です」
「ああ、先生の」
阿比留の名を聞いて、店主の目にようやく光が宿った。
「阿比留さんの家庭の事情は……」
「そりゃ、先生とは深いお付き合いですから、それなりにお話は伺ってますよ」
「阿比留さんは今どちらにお住まいなんですか?」
「……なぜそんなことを?」
「実は、五百城さんのお嬢さんが病床に伏せってまして、阿比留さんにお知らせしたくとも連絡が取れない状態なんです」
「はあ、そうなんですか。あの、電話してみてはいかがですか?」
「五百城さんに残された電話番号は、現在は使われていないんです」
「………………」
「五百城さんが知らされた住所に赴いても、とっくに引っ越しされてまして……。浅草橋なんですが、なにか聞いてませんか?」
「浅草橋? それはなにかの……。いや、わたしにはそこらへんの事情はわかりませんが」
「阿比留さんからビスクドールを仕入れているのなら、彼の住所は知っているのでしょう?」
「仕入れているというか、先生からお願いされて、うちで扱っているんです。先生の作品はうち以外では手に入りません。店はぱっとしませんが、ネットでは先生の作品は入荷待ちができるほど人気ですよ」
店主は、少しだけ商売人の矜持を見せた。インターネットでの通信販売。これがアンジュが商売を続けられている理由だろう。、阿比留の作品には高額が付くと聞いたのを思い出した。モニター越しなら、阿比留のビスクドールが放つ不吉さは伝わらない。
「そうでしたか。それで、阿比留さんのお住まいは?」
「勘弁してくださいよ。今日びおいそれと個人情報を漏らすわけにはいきませんから……」
「お嬢さんの病気は深刻です。一刻の猶予もならないくらいなんです。別れたとはいえ、親子の絆が切れるわけではないでしょう」
安都真の嘘は許容範囲だ。実際、伊月が呪いを解かなければ取り殺されていたのだから。
「そう言われましてもねぇ……」
「お嬢さんがもしものことになり間に合わなかったとしたら、阿比留さんから怒りを買うのではありませんか」
伊月は安都真の強かさには舌を巻いた。ただ、駆け引きをするには、相手にもそれなりの計算高さが求められる。最終的に柔らかく丸みを帯びている着地点を想像できる者なら会話も続くが、思慮が足らない者は穏やかな解決よりも己の自尊心を優先する。それゆえ話が拗れて周囲に不快さを撒き散らすのだが、当人はそのことにすら気づけないから修正しようもない。
「ちょっと、脅すんですか」
伊月の心配が当たった。店主は少し先の未来よりも今現在の気分を選ぶ短絡者だった。安都真が少し揺らしただけで、警戒したハリネズミよろしく棘を突き出した。
「そんなつもりはありませんが、子供が苦しんでいるのに親がそばにいられないというのも切ないものでしょう」
「個人情報は漏らせないと言ってるでしょう。信用に関わる」
伊月は色好い返事をしない店主を殴りたい衝動に駆られた。理不尽とはわかっている。店主の言っていることは至極真っ当だ。それでも命が懸かっている事情が、伊月から常識を蒸発させてしまっていた。
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