第25話 車内トラブル
「なにしてくれてんだっ。ガキを降ろせっ」
伊月が驚いて振り向くと、スパイキーショートを金髪に染めた男が、幼い女の子を抱いた女性に詰め寄っていた。男は伊月たちと同年代と思われるが、腕や脚がやたら細い。ただ、細身は虚弱を思わせずに、むしろ不穏を感じさせる危うさがあった。
女の子は大声で泣き始め、母親であろう女性は顔面蒼白になっている。
「ガキの靴が当たって汚れちまったぞっ。どうしてくれるっ」
男は着ているスカジャンの袖を引っ張って見せつけた。狼が月に向かって遠吠えをしている刺繍が施された
母親は泣き叫ぶ女の子を降ろして低頭した。
「あの、すみませんでした」
「すみませんじゃねぇんだよ。どうしてくれるんだって訊いてんだろが」
猫が鼠をいたぶるような様は、これ以上なく醜悪だった。女の子はわけもわからず怖い思いをし、泣きながら母親にしがみついている。怒鳴られている母親は、額から汗を滴らせ、ひたすら謝っている。乗客の中に、助け舟を出そうと動いている者はいない。巻き込まれないように距離を置いているが、目だけはトラブルの中心点に注がれていた。
定期的な振動とジョイント音だけが車内を占拠する中、怒っている男だけが嫌悪あふれる存在感を示し、緊張を強いていた。張り詰めた異様な空気の車内で、伊月は男に向かって一歩踏み出そうとした。
「待って」
安都真が肩に手を置いて静かに囁く。
「人間同士のトラブルだ。わざわざ首を突っ込むことはない」
熱くなっていた頭の血が、一気に感情に流れ込んだ。
「おまえ、本気で言ってるのか」
「僕たちの相手は阿比留紫星だ。些細なことにかまけてケガでもしたらどうする」
女の子の怯えきった泣き声が胸に刺さる。母親の屈辱と恐怖に耐え、子供を守ろうとする必死さが伝播する。あの光景を目の当たりにして些細なことと言うのか。
「…………」
安都真の制止を振り切り、伊月は男の肩を掴んで強引に振り向かせた。
「もういいだろ。この人はちゃんと謝ってる」
思わぬ第三者の介入に、困惑した中にも安堵が浮き出た母親に対して、男はつり上がった目で伊月を睨んだ。
「ああ? なんだぁ、てめぇは」
男は額から汗を流していた。汚らしく崩した言葉を使う様は、演技臭さを感じた。
男の様子を観察して、伊月は冷静さを維持できた。こいつは弱い者いじめしかできない口先だけのハリボテだ。予想外の横槍が入っただけで対処に遅れが生じているのを、簡単に見破ることができた。
「文句があるなら俺が聞く。次の駅で降りろ」
男の頬がピクリと動くが早いが、いきなり伊月の胸ぐらを掴み上げた。
「カッコつけんじゃねぇっ!」
伊月は反射的に男の股間を蹴った。
「ぎゃっ!?」
伊月の膝は見事に金的に入り、男は股間を抑えてもんどり打った。
強張った顔で座っていた乗客は、飛び退いて遠ざかり、子供にしがみつかれたままの母親は、混乱してどう動くべきか迷っていた。
「あのっ…」
「いいから。隣の車輌に移って」
「はいっ。ありがとうございます」
母親は再び子供を抱き、伊月の促しに素直に従った。他の乗客も距離を取り、苦しんでいる男を取り囲むような状況になった。車輌の端に座っていた者は、何事かと首を伸ばしてこちらを見ている。伊月と男に全員の注目が集まっていた。
「て…めぇ…」
うずくまった男がゆっくり立ち上がる。その手にはナイフが握られていた。瞳から異常な光を発し、息も荒く胸を上下させている。
「きゃああっ」
遠巻きに見ていた女性が悲鳴を上げ、一目散に逃げ出した。それを機に、乗客が一斉に隣の車輌に駆け出し、車内は一気に混乱の様相を呈した。
伊月の中で警報が響いた。小心者ほど、窮地に立たされると自制が利かなくなる。刃物など振りかざせば、ただのケンカが事件に発展し自分を追い詰めることになる。そんな単純なこともわからず、この男は伊月から与えられた恥辱と痛みを、暴力で拭おうとしている。本当に怖いのは、自己中心的で気が弱い臆病者だ。
伊月には格闘技の経験などない。両腕を突き出して空手や拳法を思わせる構えを取ったが、警告サインが激しく点滅して心臓が爆発しそうだった。
なんでここでナイフが出てくる? 最近、身の周りで暴力沙汰が多すぎる。これも呪いの一端だというのか?
「があっ」
男が突進してきた。ただ、走行している電車の中なので、吊手棒を掴みながらの前進だ。その分、一気に距離が縮まることはなかったが、揺れているのは伊月も一緒だった。
突き出されるナイフを避けようと体の軸をずらしたとき、安都真が流れるように前に出た。
「っ?」
安都真は液体のような滑らかな動きで、あっという間に男の関節を極めた。
「ぐわあっ!?」
あまりの激痛に、男は堪らずナイフを離した。カツッと音を立てて床に落下したナイフを、伊月は素早く蹴って手が届かない場所まで遠ざけた。
「折れるっ。折れるぅっ!」
「次は千駄ヶ谷〜。次は千駄ヶ谷〜。お出口は左側です。都営地下鉄大江戸線は お乗り換えです」
ひどく呑気に流れるアナウンスに混じり、パキッと乾いた音が不協和音となって車内に響いた。
「ぎゃあああっ!」
折った?
伊月の驚愕をよそに、電車が停まりドアが開くと安都真はホームに降り立った。
「稀李弥。早く降りろ。逃げるんだ」
「あ? ああっ!?」
「もたもたしてたら、駅員や警察の相手をしなくちゃならなくなる。そんな時間ないだろ?」
安都真は駆け足で階段に向かった。振り返りもしない。伊月が必ず付いてくると確信している、迷いのない動作だ。
伊月はどうすべきか迷った。しかし、迷った時間は一秒もなかった。乗客の誰かが車掌に知らせたのか、駅員が押っ取り刀で走り抜けていった。伊月は関係者と悟られないように余裕を醸し出し、それでいて緩慢にならない足取りで、エスカレーターを駆け下りた。
二人は誰かに呼び止められることなく、駅から出ることができた。今はあちこちに監視カメラが設置されている。車輌にも防犯カメラがあったはずだ。後日大仰なことにならなければよいが、なにしろ時間がない。とりあえずは無視を決め込んだ。
「安都真」
「なんだい?」
「助けてくれたことには感謝するが、なにも折らなくてもよかっただろう」
「仕方なかったんだ。乗り過ごす暇なんかないし、あの男を放置しておくこともできない。ああしてしばらく動けないようにするのが最適解だったんだよ」
「それはわかるけどよ…」
安都真が言わんとすることはわかる。十分に理解できる。それでも、彼の無表情で人の腕を折る姿がまぶたに焼き付いていた。
人というは、どんなに強くても他人を攻撃する際にはストレスを感じるものだ。それが躊躇いに出たり、逆に勢いに変換されたり、呼吸が荒くなったりとなにかしらの行動に現れる。安都真は違った。まるで割り箸をゴミに出す際に二つに折るように、一切の感情を発露させずにへし折った。安都真は感情を表に出さないのではなく、人間性に欠如している。仲間でありながら、彼に対する畏怖の念が芽生えた。
「おい」
「ん?」
「なにか格闘技を身に付けているのか? さっきの動きは素人じゃなかったぞ」
「ちょっと護身術を教わったことがあるだけだよ」
「ふ~ん……」
安都真の答えに納得したわけではないが、追求しても教えてくれまい。付き合えば付き合うほど謎が多くなっていく。本当に不思議な男だ。
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