第19話 鏡の中

 ドレッサーの円形の鏡には、純白のドレスを着たビスクドールの横顔が映っていた。鏡に閉じ込められているのがごく自然と思えるほど、あたりまえのように映り込んでいた。

 先日、エリカのブースで暴れた女もビスクドールを持っていたのを思い出した。先ほど感じた引っ掛かりはこれだったのだ。


「……また人形。こいつも白……」


 虚像から目を離し、実体を探した。ビスクドールはベッドの枕元の奥に置かれており、萌乃樺を背後から見つめているような配置だ。伊月はビスクドールに関する知識は皆無だが、妙に存在感がある。ついさっき、萌乃樺の父親はドール作家だと聞かされた。その父が製作したものであろうことは想像に難くなかった。


「勝手に座らせてもらいますよ」


 伊月は返事を待たずに、ドレッサーのスツールに腰掛けた。


「はじめまして。わたしは伊月といいます。わたしはあなたと交信することが可能です。なにか希望があるのなら、聞かせてもらえませんか」

「………………」


 萌乃樺からの反応はなかった。伊月の声が聞こえていない様子だ。彼の能力なら届かないはずがない。すると、あえて無視をしているのか。

 微かに生じた考えを、即座に否定した。霊は強い念がこの世に執着しているものだ。交信できる者を目の前にしておきながら、なんの要求も開示しない手はない。せっかく解決する術を持った者が来たのに放棄しては、この世に留まる意味がない。

 この霊は、なにが目的で萌乃樺を取り込んでいるのか……

 まずはそれを見極めなくてはならない。誤った方向に進んでしまうと、接触しているこちらにも累が及ぶ。それなのに、こうまで反応がないと足踏みをするしかなくなる。恨みを晴らしたいのか。生前に果たせなかった願いがあるのか。

 安都真のアドバイスを思い出せ。彼は交信しなくとも、観察しただけで霊の目的を看破したことがあるではないか。なにかあるはずだ。萌乃樺を取り込む理由が……。

 そこで思考に急ブレーキが掛かった。そして、自分の呟きに不自然な点があったことに気づいた。

 俺は取り込まれていると感じた。取り憑かれているではなく、取り込まれていると……。

 背筋が凍るほどの視線を感じた。萌乃樺を見る。だが、彼女は相変わらず空を見つめているだけで、伊月には一瞥もくれない。視線に込められた殺気が強くなった。皮膚を突き破る錐と化した視線に、心臓が縮こまった。すばやく破魔札を構えて、臨戦態勢を取った。

 どこだ? この家には五百城母娘と自分しかいないぞ。まさか、斉藤のときと同じで、取り憑かれているのは萌乃樺ではなくっ。

 伊月がスツールから立ち上がろうとしたとき、ベッドに置かれたビスクドールと目が合った。緊迫した状況だというのに、時の流れが止まった気がした。


「………………」


 無表情のはずの人形が、たしかに伊月を睨めつけていた。


「人形っ? こいつがっ!?」


 叫んだと同時に、全身が硬直した。瞬時に体の自由が利かなくなった。座ったままの姿勢で金縛りとなり、冷静さを保てなくなる。

 続けざまにビスクドールがいる環境で窮地に陥っている。これはなにかの暗示か? それとも……、もしかして、まさかっ? あの時も取り憑かれていたのは喚き散らしていた女ではなくビスクドールの方だったのか?


「こいつっ、俺まで呪うつもりかっ!」


 つま先から徐々に禍々しいものが注入されていくのがわかる。抵抗しようにも、強力な呪縛で身動きが取れない。その様は、生きながらにしてゆっくりと蛇の口内に取り込まれる憐れな蛙だった。

 くそっ。ちくしょうっ。もっと注意すべきだった。父親が残したものだと思い、完全に意識の外に放り出してしまっていた。安都真が知ったら、呆れ果てるに違いない。諦めるなっ。意識を保てっ。気を失ったらヤバいっ。どうにかして、この縛めを解くんだ。人形。あれを破壊すればっ……。

 コールタールに塗れたような腕を必死に伸ばしたが、あとちょっとのところでビスクドールに届かない。  


「五百城さんっ。来てくださいっ。五百城さんっ。聞こえますかっ」


 リビングからあるべき反応が返ってこなかった。愛娘の危機かも知れないのに、無視するわけがない。すでに花紗音にも呪縛を施したか。

 伊月はビスクドールに伸ばした手を引っ込めて、上半身を起こした。

 陶磁器製の人形が表情を変えるはずがないのに、伊月を見下し、口角を上げて醜く嘲笑っているように見えた。


「…なに笑ってんだよ。呪いの強さに余裕ぶっこいてるのか? たしかにおまえに触れるのは諦めた。どれだけ足掻こうが、おまえには届かない。しかしっ」


 伊月はビスクドールに背中を向けた。


「こっちなら余裕で届くぜっ」


 破魔札を鏡に映っているビスクドールに押しつけた。記されている呪文が淡く発光した。効果を発揮している証だ。


「鏡は真実を映すっ。古来よりおまえらのような怨霊を暴き出すのにも使われてきた聖具だっ。おまえも像の中に取り込まれているぞっ。一か八かだったが、大当たりだったなっ」


 ビスクドールの顔に亀裂が生じた。破邪の力が確実に利いている。あとは人形の呪力と伊月の霊力の勝負だ。持っていかれそうな意識を必死に繋ぎとめ、あらん限りの霊力を破魔札に集中させた。


「うーっ!!」


 ビスクドールの亀裂がみるみる増えていき、ついには音を立てて砕け散った。固まっていた体が一瞬で軽くなり、伊月はその場に崩れ落ちた。


「……ざまぁみろ。人形如きが人間様をなめるな」


 伊月の視界が急速に霞んでいく。薄れる意識の中で、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る