第18話 解せない違和感
伊月は唾を飲み込んでから
「その……写真に写っている相手が、萌乃樺さんにひどい仕打ちを?」
「そうじゃありません。そんなことないっ。写っているのはわたしなんですっ」
「そ……」
そんな馬鹿な、と言おうとして寸でのところで言葉を飲み込んだ。今の段階ではなにも把握していない。つまり、なにも否定してはならない。
「その……失礼ですが、萌乃樺さんとは、なにかしらの確執があるのですか?」
親子だからといって仲がよいとは限らない。世界にはとんでもないく身勝手な理由で親を殺害する者がいる。逆もまた然りで、子供に愛情を注げない親も数え切れない。血の繋がりはあっても、心まで通う保証はないのだ。
「いいえっ。そりゃ親子喧嘩の一つや二つはしましたが、憎まれるほど激しい諍いなんかなかったはずです」
「………………」
花紗音の答えを鵜呑みにしてよいものか悩みどころだった。人の心は複雑だ。激しい喧嘩の後でもあっさり仲直りできることもあれば、些細な一言からその人物を遠ざけることもある。
萌乃樺が母親の写真を傷つける理由はなにか。考えをまとめようとして、ふと気がついた。娘の窮地だというのに父親がいない。依頼をしてきたのも花紗音だった。
「……そういえば、ご主人の姿が見えませんが、今日はお仕事ですか?」
「主人とは、一年前に離婚しました」
「それは…失礼しました。その、お嬢さんのことは?」
「一応、知らせました。けど、素っ気ない返事をしただけで電話を切ってしまいました。顔も見せやしない」
「もし差し支えなければ、離婚の理由を教えていただけませんか?」
「それが今回の件と関係があるんですか?」
花紗音の口調が微かに刺々しくなった。離婚の背景がうっすらと透けて見える。
「どんな可能性も捨てきれません。離れたとはいえ、我が子が苦しんでいるのに様子を見に来ないというのは、親の心理としては不自然な気がします」
「離婚に至るまで、色々あったものですから……」
「………………」
一度は拒んだものの、娘のためとなれば無視はできない。伊月の無言の促しに圧されて、花紗音はぼそぼそと喋り始めた。
「主人はドール作家なんです」
伊月の頭になにかが引っ掛かる。なにか無視してはいけない情報が含まれていた気がしたが、それがなんなのかわからなかった。
「そうなんですか……」
「元々仕事熱心な人でしたが、ここ数年の傾注振りは常軌を逸していました。人形に対する情熱は異常ともいえるくらいで、一緒に暮らしているのが怖いくらいでした」
おそらく、その辺りが離婚に踏み切ったり原因なのだろう。
「萌乃樺が伏せるようになったのは一週間前からで、ちょうど離婚して一年が経った日からなんです。最初は父親を思い出しているのかなって思ったんですが、そんな感じでもなくて……」
父母が別れるのを止められなかったのだ。それなりに思うところはあるだろう。ただ、離婚自体は珍しいことではない。人生における苦い経験に過ぎず、呪いや祟りとは無関係に思える。話が脱線してしまった感がある。
理だ。理を紐解けば、自ずと対策も立てられる。
「よくわかりました。それでは、萌乃樺さんに会わせてください」
「……はい。では、こちらに」
花紗音は明らかに緊張していた。舞台袖で待機していた役者のように、おずおずと萌乃樺の部屋に案内した。
部屋に入った途端に、空気の重量を頭上に感じた。見えない力に抑え込まれているようだ。精神に食い込んでくる刺の鋭さも尋常ではない。一気に外界から遮断されたみたいで、すぐにでも脱出することを考えてしまったくらいだ。
……だが、耐えきれないほどじゃない。
かつての伊月だったら、すぐにでも逃げ出していただろう。安都真との修行ともいえる日々は、彼を確実に成長させていた。
萌乃樺は、ベッドに座ったまま壁を見つめていた。伊月たちが入室したことにも気づいていない様子だ。
「……萌乃樺さん」
名前を呼んだが、反応がない。花紗音が嗚咽を堪える気配が伝わった。
「お母さんは、リビングで待っていてください」
「けど……」
「申し訳ありませんが、お母さんがいても役に立ちません。二人きりにしてもらった方がやりやすい」
「………………」
「大丈夫。手荒な真似はしません。お母さんの力が必要になったら、呼びますから」
それでも、花紗音は娘のそばにいたそうだったが、伊月の説得に折れる形でリビングに引っ込んだ。
二人きりになった理由は二つある。一つは、花紗音に取り乱されると邪魔になる。子を思う親の気持ちが強いほど、除霊の力になることもあるが、逆に作業の妨害になることも多々ある。二つ目は、萌乃樺の反応を見せたくなかったというものだ。霊が憑依した対象を操作して、醜悪な表情や発言、ときには行動を見せる場合がある。花紗音には手荒いことはしないと言ったものの、こちらも護身はしなくてはならない。
萌乃樺は魂が抜けたように呆けている。伊月のことなど視界の端にも引っ掛かっていない様子だ。それでも油断はできない。除霊を始めた途端に豹変して暴れる例は、枚挙に暇がない。
理だ。それを忘れるな。この霊は、なにが目的で萌乃樺を取り込んだのか。
室内を観察した。ローテーブルとフロアチェアが置かれており、壁際にはドレッサーとベッドが配置されている。いずれも白で統一されており清潔感がある。二十代の女性らしく小洒落てはいるが、なんてことのない部屋だ。それなのに、どこか違和感がまとわりつく。まるでシャツを前後逆に着ているように、しっくりとこない。もどかしいことに、その正体がわからなかった。
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