第17話 丑の刻参り

 伊月は、JR総武線新小岩駅に降り立った。あれこれ考えたが、結局は徒歩で現地に向かうことにした。葛飾区に足を運んだのは初めてだった。有名な映画シリーズや漫画のイメージが先行し、門前仲町のような下町風情がたっぷり残った土地柄だと思っていたが、東京の端っこにある平凡な町だった。受けた印象は駅から離れるほど濃くなっていき、奥戸には入った辺りには、生活臭が漂うだけの特色のない住宅街になっていた。


「………………」


 実は、五百城との通話を終えたすぐ後に、安都真にメールを送っていた。これから向かう五百城家の住所を記し、来られるようなら来てほしい旨を綴った内容だ。昨夜の安都真はけんもほろろだった。それでも、なんのかんの言っても駆けつけてくれそうな気がしたからだが、送信してすぐに後悔した。

 情けないことに、いつの間にかすっかり彼に依存してしまっている。彼らがいないときに精神的な穴を感じるようになっている。体裁が悪いことこの上ないが後の祭りだった。彼とは死が二人をわかつまでの関係ではあるまいし、精神的に自立しておく必要がある。ほんの少し前までは一人で対処していたのだ。やれないはずがない。

 頭に叩き込んだ道筋を辿り、五百城家には一度もマップサイトで確認することなく到着できた。四階建てで、外壁の傷み具合から建てられてから三十年は経過していると思われた。伊月の印象を裏付けるように、オートロックも設けられていない。完全に時代に取り残された、新規の入居者は期待できないマンションだった。

 五百城の住居は三階の端から三番目だった。近づくにつれて、空間が歪んでいるような異様な空気が濃くなっていった。間違いなく、強力な怨霊が放つニオイだ。急に安都真と玲佳の顔が浮かんだ。ビビって腰が引けているのだ。頭を振り二人を払い除けた。


「できるさ……」


 己を鼓舞する呟きを口にし、インターフォンを押した。


 応対したのは痩せ細った女性だった。見たところ五十代前半のようだ。昨夜電話で話した五百城花紗音に違いなかった。ボーダー柄のニットにダークグリーンのフレアスカートという出で立ちだ。若い頃には美人だったであろう面影があるものの、刻まれた皺が時の流れの残酷さを語っている。加えて、疲弊しきっている様相が、尚の事かつての美貌を惨めなものにしてしまっていた。

 花紗音が言葉を発する前から、抱えている問題の深刻さが嗅ぎ取れた。彼女の萎れ具合もそうだが、室内に充満する、冷や汗を誘発する重苦しさからも、凶悪な怨念の存在を認知させた。伊月は冷静さを保つために、花紗音には悟られないよう静かに深呼吸をした。

 リビングで向き合った。余計な会話はせずに、すぐに事情聴取を始めた。


「お送りいただいたメールから察するに、かなり厄介な事態になっているようですが……」


 花紗音の目から、堪えていたものを吐き出すように、涙が溢れた。


「こんなこと、人に話したら気が触れたと思われるんで、誰にも相談できなかったんです」


 こんなこととは、怨霊とか呪いの類を指すのだろう。たしかに、誰彼構わず話せることではない。


「わたしが聞きます。なんでも話してください」


 花紗音はハンカチで涙を拭うと、ほんのりと恥じらう仕草を見せた。初対面の伊月を前に落涙してしまったので、気まずさを感じているのだ。なかばリップサービスだったが、落ち着かせるくらい効果はあったようだ。


「お嬢さんの様子がおかしいとか……。お名前は……」


 水を向けると、花紗音は再び泣きそうになるのをぐっと堪えた。


萌乃樺ほのかといいます。……そうなんです。最初は精神疾患の類いだと考えたのですが、あまりの豹変振りになにかが取り憑いてるとしか思えなくて……」

「具体的にはどのように?」

「伏せって、仕事に行かなくなりました。職場でセクハラやパワハラを受けているのかと思って問い質したのですが、そうではないと言い放って。でも、イジメってなかなか家族に言えないものでしょう?」

「そうですね……」


 伊月は歯切れが悪いの返事をした。彼自身に会社勤めの経験がないためだ。それでも、SNSやニュース報道などで知識は持っている。四十や五十過ぎの大人が信じられない幼稚な行いを繰り返しているのが発端で、暴行や自殺、殺人にまで発展しているのが社会だ。どれだけ年齢を重ねようが、粘着質な嫌がらせやくだらないクレームを繰り返す馬鹿はたしかに存在するし、イジメのターゲットにされてしまう者もいる。複雑な組織や制度を築き上げた現代の病巣だ。世間がどれだけ平等と権利を訴えても、最終的に我が身を守るのは自分自身だ。決して折れない不屈の精神と強い意思を持ち続ける必要がある。そして、それは想像しているよりも遙かに難しい。人は安心を得るために、家族を作ったり、一人で趣味に没頭したり、毎晩酒を呑んで愚痴をこぼしたりする。

 伊月は、場合によっては職場の人間に聞き込みをする必要もあると心に留めた。


「それから……」


 花紗音は、それまで以上に言いづらそうに口を開いた。


「なんでしょう?」

「その……、写真をですね……」

「シャシン?」


 一拍おいて、頭の中で写真と漢字に変換された。昨今、撮影はほとんどスマートフォンのカメラで済ませて、記録はデジタルのまま保存されるから、すぐに思い浮かばなかった。


「写真というと、記念撮影とかの写真ですか?」

「……その写真です。何枚もの写真を針で刺したり、鋏で切り刻んだりしているんです」


 すぅっと背中に冷水が伝う気分がした。妙齢の女が写真に怨みをぶつけている。まるで丑の刻参りだ。その姿を想像するだけで、異様さに拍車が掛かった。

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