第12話 暴れる山猫
三人で赴いた先は、築後それほど経過していないと思われる綺麗なマンションだった。サンハイム丸山と刻まれた館銘板がある。エントランスに入ると、冷たい空気と騒音が遮断された。数多くの宅配ボックスが並んでおり、防犯カメラが設置されているのが確認できた。
目的の部屋は、五〇三号室に住んでいる斉藤家だ。陽光の代わりに照明で明るさを演出しているエントランスは静かだった。ここからではこれといった異変はなく、怪異に悩まされている住人がいるなんて思えなかった。察知できないのは伊月だけで、二人はもう感じ取っているのだろうか。
インターフォンで来訪を告げると、中年男性が応対し、慌ててオートロックを開けた。斉藤家の主だろう。五〇三号室の前まで行くと、すでにドアが少し開かれており、インターフォンに出たと思われる男性が顔だけを突き出していた。
伊月たちの姿を認めると、小走りに近づいてきて、挨拶もそこそこに背中を押すように招じ入れた。近所の目を気にしているのだ。依頼者には珍しくない態度だが、斉藤の緊迫感は事の重大さを物語っていた。伊月は鼓動の高鳴りを自覚した。
「どうぞ、お入りください」
「これは……」
伊月は思わず呟いた。室内の壁は傷だらけだった。壁紙が破り取られている箇所もある。物も散乱しており、掃除をしていないというより、片付けても無駄だから諦めたといった感じだ。エレベーターで五階に上がった時点できつい悪臭を嗅ぎ取っていたが、部屋に入った途端に不穏な空気が一気に濃度を増した。斉藤氏には悪いと思ったが、安都真の実力を測れるチャンスだった。これは紛う方なき怨霊が放つ圧力だ。しかも、先日訪れた香田家の怨霊に勝るとも劣らない強烈なものだ。
三人は通されたリビングで話を聞いた。男は斉藤
メールでは、取り憑かれているのは一人娘だと記してあった。改めて話を聞くと、現在は父と娘の二人暮らしとのことだった。母親は二年前に交通事故で他界している。男親と年頃の娘では接点が少なく、娘の様子がおかしいことに気づいたのは、つい数日前だという。
「具体的には、どんな変化が?」
荒んだ室内でも、安都真の態度は変わらない。彼の質問に、斉藤は腕組みをして視線を上げた。
「…言動がどんどん粗暴になっていきました。部屋の様子からもわかるでしょう。単に暴れるなんてレベルじゃないんです。刃物を握って意味不明なことを叫ぶときだってあります」
「元々、気性が荒かったなんてことはないのですか?」
「そんなことはありません。どちらかというと将来が心配になるくらい引っ込み思案な性格です。それに、
「しかし、お嬢さんとは生活のリズムが合わず、距離が離れている環境と仰いましたよね? とくにお嬢さんは十六歳。多感な年頃の上にお母さんを亡くされるというショッキングな経験をしている。人間の成長は早い。夏休み明けに久し振りに会ったクラスメイトが、どうしょうもない不良に成り下がってたなんて、ザラにある話ではありませんか」
「それでもっ」
安都真の淡泊ながらも挑発的な発言に、斉藤は声の大きさを一段階上げた。
「
斉藤が、初めて娘の名を呼んだ。伊月には解せなかった。安都真ならば、凄まじい念の存在に気づいていないはずがない。それなのに、精神が不安定な年頃の少女の、ありふれたドロップアウトとして処理しようという姿勢だ。
「そう焦らずに。とにもかくにもお嬢さんに会わせてください。そうでなければ始まらない」
「娘を元に戻してくれるのか」
「まず、お嬢さんに面会してから……」
安都真の涼やかな誘導は、断れない力があった。強引ではないのに、その流れに身を委ねてしまう。小川に浮かべた笹舟が、楽しげに遠のいていくように。
安都真は玲佳にリビングで待つよう言い、伊月だけを伴った。玲佳は言い返すことなく素直に従う。彼女もなにかを感じ取っているようだ。安都真並の霊力を持っているのだろうか。安都真だけではなく玲佳の実力も測りたくなった。
斉藤が奥にあるドアをノックした。結衣の部屋だ。
「結衣。父さんだ。入るぞ」
返事はない。斉藤に沈んだ様子はないので、無視されるのが通常になっているのだとわかる。
構わずドアを開けると、室内は悲惨な様相を呈していた。教科書、小物、衣類、あらゆるものが散乱しており、足の踏み場もない。部屋の散らかり具合とは真逆に、結衣はすっきりとした、つまり一糸まとわぬ姿でベットに座っていた。
父親とは逆で、とても小柄な少女だった。まだ幼さを残しているが、膨らみかけた乳房とうっすら生えた陰毛は、はっきりと女を主張しており、華奢な体から歪な色気を漂わせている。ただ、形相は大の男でも怯むくらい凶暴で、侵入者に対して、眼光で射殺さんばかりの殺気を向けている。
「結衣っ。おまえは、またそんな格好でっ」
「あっ、刺激しないで」
安都真の制止が間に合わず、斉藤は結衣に近づき毛布を掛けようとした。
「ぎしゃあぁああっ!!」
結衣は、威嚇の雄叫びを上げると同時に斉藤に飛び掛かった。
「うわっ!?」
斉藤は振り回した手を辛うじて避けたが、頬から鮮血を滴らせた。平手打ちをしたのではなく、鋭い爪で引っ掻いたのだ。
結衣の攻撃は止まず、今度は斉藤の腕に噛みついた。
「ぎゃあっ!」
歯がガッチリと食い込み、血が溢れ出している。このままでは肉を食いちぎられてしまう。
「おいっ。やめろっ」
伊月が結衣を取り押さえようとしたが、力が女子高生のそれではなかった。滅茶苦茶に暴れ回るものだから、文字通り手が付けられずに、逆に爪牙の餌食になってしまった
「いっ!」
手の甲を思い切り引っ掻かれた。結衣の動きは一貫性がなくて、まるで罠に掛かってパニックになっている山猫だ。
安都真が音もなく前進し、掌を結衣に向けた。
「…………………………」
なにかを呟いているようだが、伊月には聞き取れなかった。だが効果は絶大で、結衣はほんの数秒で目を閉じると、そのままベッドに崩れ落ちた。
「結衣っ!?」
「大丈夫。お嬢さんは気を失っただけです。リビングに戻りましょう。傷の手当てをしなくては」
影のように間合いに入り、電光石火で術を行使する。あまりの鮮やかさに、伊月は改めて安都真との格の違いを見せつけられた気分だった。
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