第8話 邂逅よりカツカレー

 伊月は途轍もない不安を覚えながら、先を促した。


「なにか?」

「その…、たいしたことではないのですが」

「なんでも言ってください。きっかけというのは、思わぬところにあるものです」

「ええと…、先ほども説明した通り、我々は夜遅くまで精進湖に留まっていたんです。それから出発して、高速に乗る前に、一度車を停めて拓哉が外に出たんです」

「一人だけで? なんでそんな……」

「おしっこを我慢できないというので、つい……」

「それで、外で用を足したと?」

「危険はありませんでした。車のすぐ近くだったし、ガードレールの向こうは森だったんで」

「森?」


 伊月はスマートフォンを取り出して地図サイトを開いた。


「精進湖の湖畔にある公園と言いましたね?」

「あ、はい。そうです」


 精進湖からドラッグして、画面をスクロールさせた。さらにピンチアウトをして地図の範囲を広げる。この場所から高速に乗るルートにある森といえば……。


「青木ヶ原樹海……」

「え?」


 青木ヶ原樹海といえば、面積はおよそ三十平方キロメートルの森だ。神秘的な情調を湛えている場所で、数々の都市伝説がまことしやかに囁かれている。そして、自殺志願者や死体を隠す犯罪者が結集する場所となっている、忌まわしい一面もある。そんなところで、二階にいる少年は小便を撒き散らしたのだ。


「……連れてきやがった」

「なんです?」


 香田家全員の無神経さに、熱が上がる思いだった。青木ヶ原樹海に息巻いている念に、穏やかなものなど皆無と言っても過言ではない。拓哉に取り憑いた怨念は、生前、よほど悲惨な人生を送り、樹海の中で息絶えたのだろう。自殺か他殺かはわからないが、その無念さは想像を遥かに越えるものだったに違いない。そうでなければ、あそこまで邪悪な霊になるはずがない。

 よりにもよって、そんな悪霊を小便で汚すとは、なんたる愚行を犯したのか。


「馬鹿が……」


 伊月のつぶやきが聞こえなかったはずがないが、彼から発せられる不穏な気配に当てられ、武雄も静子も居心地悪そうに黙りこくった。


「………………」

「………………」


 沈黙の重たい空気が充満したが、拓也の部屋の禍々しさに比べればいか程でもなかった。


「……わたしの他にも、除霊を頼んだ人がいるようですが?」


 伊月は昨日の電話でのやり取りを思い出した。


「実は、はい、そうなんです……」

「その方々はなんと?」

「その…もっと力のある人に頼んでほしいと……」

「拓人を見捨てたんですっ」


 それまで黙っていた静子が、堰を切ったように大きな声を出した。


「大見得を切っといて、拓哉を見た途端に逃げ帰って。なにが高い評価よ。実績豊富よっ」

「静子。落ち着きなさい」

「だって!」


 伊月は、大きく息を吐いて立ち上がった。


「先生?」

「一度お暇します。ご子息に憑いているのは、並大抵の霊ではありません」

「あんたも逃げるのねっ」

「おいっ。失礼なことを言うなっ」


 武雄が宥めるが、静子の興奮は収まらない。伊月こそが憎むべき対象だと言わんばかりの、鋭い視線を浴びせ続けた。

 中年女性のヒステリーにうんざりしたが、つきあってこちらまで感情的になることはない。気持ちの乱れは霊が付け入る隙になる。


「今日持ってきた道具では、心許ない。中途半端に刺激したら、却ってご子息を危険に晒すことになりかねません。十分に準備を整えて、明日改めてお邪魔します。時間は今日と同じでよろしいですか?」

「ああ、はい……。はい。大丈夫です」

「それでは……」


 香田家を辞した伊月は、圧力から解放されて、ようやく肩が軽くなった。引き換えに、頭が重たくなって両手で抱えたかった。

 武雄夫妻にはああ言ったものの、あの巨大な怨霊に対抗する術が思いつかない。自分の実力では、歯が立たないどころか返り討ちの憂き目に遭ってしまうのが確実と思われた。


「どうすればいい……?」


 他の同業者と同じく、このまま放棄してしまおうかという考えが頭を掠めた。あの二人がSNSなどを使って拡散するとは思えない。

 いや駄目だと、甘い誘惑を断ち切った。あれは単なる霊を通り過ぎて悪霊となった念だ。放っておけば、そう遠くない未来に香田一家に不幸をもたらす。それもとてつもなく悲惨な不幸をだ。

 破魔札に念を込めてもらっている神主に縋るか。いや、しかし……。

 まとまらない思考をかき混ぜていると奇怪な気配が入り込んできた。

 っ。追いかけてきた?

 構えたものの、すぐに緊張を解いた。感じ取った気配からは禍々しさがなかった。気持ちをひりつかせる圧はあるものの、敵意はない。

 なんだ? と思う間もなく、前方から近づいてくる男女二人の組み合わせに気がついた。異質な圧力は、あの二人が近づくにつれ強くなった。


「あ……」


 まだ距離があったが、伊月には瞬時にわかった。女の方は知らないが、男は一ヶ月ほど前に葛西臨海公園で見掛けた青年だ。感じ取った気は、あの青年から発せられているのだ。

 互いの距離がどんどん縮まる。伊月は鼓動が大きくなり息苦しくなったが、青年たちはおしゃべりをしながら歩いている。主に女が喋って、青年は聞き役に徹していた。伊月のことなど覚えていないのか、目の前まで接近しても意にも介さない。


「だから、あのカレーはダメだって」


 女は興奮気味に捲し立てている。


「でも、カツは柔らかかったんだろ?」

「アホめ。カツカレーはカツとカレーが混然一体となって初めて完成されるんだ。あのカレーはコクも旨味も辛ささえなかったっ。しかもご飯までベチャベチャで……」

「まあ、カレー屋じゃないカレーだから……」

「もう一回アホめ。蕎麦屋のカレーってのは、カレー専門店とは違った旨さがあるんだよ。カレー屋だろうが蕎麦屋だろうが、あれは食いもん屋で出していい代物じゃない」

「でも、全部食べたじゃないか……」

「出された以上、食わなきゃ勿体ないでしょうがっ」

「………………」

「………………」

「しかも、一六〇〇円だよっ? あんな不味いカツカレーが一六〇〇円っ。信じらんねー」

「お金を出したのは僕じゃないか」

「金額の問題じゃないのっ。わたしがどれだけカツカレーを楽しみにしてたか知ってるでしょっ」

「知らないよ……」

「楽しみだったのっ。ふとカツカレーなんか久しく食べてないなと思ったら、すんごく食べたくなって、もうカツカレーしか喉を通らないくらいに飢えてたのっ。やっとたどり着いたカツカレーが、あんな……」


 威勢のよい女だった。嫌でも目を向けてしまうが、理由は彼女の声だけではなかった。青年の強烈な妖しさに霞んでいるが、女の方からも奇怪なニオイが滲み出ている。

 あの二人組はいったい? 今、この場にあの青年が現れたのは偶然か? それとも、運ばれてきた必然なのか? それに、どこに向かうつもりだ? まさか……。

 なにか予感がした。無視できない胸騒ぎだった。糸が絡まるように、二人の後をつけてしまっていた。

 二人はとりとめのない会話を続けて、伊月の尾行にはまったく気づかない。しばらく歩くと、伊月は自分の勘が当たっていたと知った。

 二人は香田家を目指している。あの青年なら、凶悪な念を察知していないはずがないが、それでも行こうとしている。どういうことなのだ。

 はたして、二人は香田家の前で足を止めた。そして、躊躇わずにインターフォンを押した。

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