第7話 星を見上げて

 出てきたのはウェリントン型のフレームをした眼鏡を掛けた中年男性で、その後ろにはふくよかな体型をした女性が控えていた。男がメールに記載されていた香田武雄で、後ろの女性は妻なのだろう。武雄が痩せぎすなので、丸みを帯びた体が一層引き立って見える。それなのに、やつれている印象がはっきりと見て取れた。

 悪霊憑きの家族は、大抵が消耗している。普通、家族や知人に変調を見出した際、現実的な理由を考える。病気による体調不良や、ストレス、鬱、精神錯乱などだ。当然、対処も尋常な手段になる。医師の診断に始まり、通院、薬物投与、それでも改善の兆しが見られなければ、精神医療に踏み出す。霊の存在など頭から否定した治療なので、効果など表れるはずがない。悩みに悩んだ末、藁にも縋る思いで霊能者に頼む。そんな背景を経てからなので、悪霊憑きも関係者も疲労困憊の様相を呈しているのだ。


「伊月です。この度はご依頼を頂きまして……」

「香田武雄です。これは家内の静子しずこです」


 静子はおずおずと頭を下げた。霊能者と称する伊月に対して、懐疑的な気持ちを持っているように感じられた。

 形式だけの挨拶を済まして、二階にある子供部屋に案内してもらった。通常なら、まずこれまでの経緯を聞くところだが、一刻も早く圧力の正体を知りたかった。それ以上に、事を済ませて早々に辞去したかった。さっきから額をピリピリさせる汗が止まらない。胃の辺りがムカムカして吐き気を催してきた。

 一緒に上がったのは父親の武雄だけで、母親もついてこようとするのを武雄が止めた。伊月にしても、その方がよかった。母親はすでに涙で目を真っ赤にして、冷静さに欠いていたからだ。精神が不安定な者は霊に付け入られやすい。


拓也たくや、開けるぞ」


 武雄が遠慮がちに息子の部屋のドアを開けた。


「ぅおっ?」


 途端に念の壁が直撃した。真夏の炎天下でコンビニエンスストアの自動ドアが空いた瞬間に、空調で冷やされた空気が溢れてくるように。

 ごく普通の子供部屋だった。勉強机には筆入れや時計が置かれており、本棚には辞書やドリル、それに数冊の漫画が収められている。似つかわしくないのは、部屋の主である香田拓也だけだ。

 拓也は壁際のベッドの上にあぐらをかいて座っていた。細く華奢な少年だった。武雄の話で八歳だと聞かされている。精神的にも肉体的にも未熟な年齢だ。

 その子供の眼力に、伊月は圧倒された。血の気が引いて顔が青ざめるのが自覚できた。滲み出ていた汗が、汗腺を押し広げて一気に噴き出した。

 拓也の背後に、とてつもなく邪な黒い塊が見えた。伊月のような視える者だけが捉えることができる霊だ。霊感のない者には視えないものだが、嫌悪感はしっかりあるのだろう。武雄は実の息子である拓也に対して、完全に意気地を折られている。


「………………」

「……あの、どう、でしょう……?」


 伊月が固まってしまったのに気づき、武雄は心細そうに問うてきた。

 伊月は武雄を無視して、鞄から数珠を取り出して手に巻いた。


「少しだけ、調べさせてください……」

「先生……」

「大丈夫。息子さんには害はありません」


 なるべく刺激しないように、ゆっくりと拓也に触れようとした。


「かあっ!」


 拓也が子供とは思えないかすれた声で吠えると、数珠がバラバラに弾け飛んだ。手にものすごい衝撃を受けて、慌てて引っ込めた。


「伊月先生っ!?」


 手を確認したが、指は五本ともある。千切れ飛んでいないことに安堵したのも束の間で、力の差に愕然とするしかなかった。


「伊月先生。おケガはありませんか?」

「ええ…。大丈夫です。一旦下に降りましょう」


 武雄の返事を待つまでもなく、伊月はドアを閉めて階段を降りた。



 出された茶を飲み干して、大きく息を吐いた。味がまるで分からない。二階にあんな化物がいるので、茶の一杯では落ち着けるはずもなかった。


「あの……」


 武雄の言葉を遮って、伊月は質問を投げ掛けた。


「なぜ……」

「え?」

「なぜ、息子さんにあんなものが? 返信頂いたメールでは、三週間前からということでしたが…」

「あんなもの……」


 武雄の反応は鈍かった。それは無理からぬことだった。霊視能力がない者に、拓也に取り憑いているものの凄まじさは見えない。肌感覚で怖れを抱くだけだ。それを承知の上で、少し感情が吐露してしまった。


「三週間前からというのは、確かなんですか?」

「あ、あの、そう。そうです。三週間前から…です」

「……なにかきっかけというか、あの状態になる前に変わったことはありませんでしたか?」

「変わったこと、ですか……。普段と違うことといえば、ちょっとした旅行に行ったくらいですけど……」

「旅行……」

「旅行といっても、日帰りのドライブです。富士山の近くまで行って、真夜中に帰ってきたんです」

「………………」


 それだけでは、あんなおぞましい霊に取り憑かれる理由にはならない。富士山を目指す旅行者は、年に何千何万といる。ドライブやツーリングを楽しむ者や、ホテルやコテージに泊まる客、キャンプを目的に来る者も多い。その中で、拓哉が依り代に選ばれてしまったのは、ただ運が悪かっただけなのか。それとも、なにか理由があるのか。霊に見初められてしまうような条件が……。


「……帰ってきたのは真夜中とおっしゃいましたが、なぜそんな遅くなったんですか? 渋滞にはまったとか?」

「いえ、拓哉に星を見せてやりたくて」

「星、ですか」

「ええ。ちょっと都会から離れれば、素晴らしい星空を観測できます。あの美しさを知ってもらいたくて」


 武雄自身、満天の星空に感動したことがあるのだろう。我が子に同じ感動を与えたい気持ちは親心といったところか。


「場所はどこでしたか?」

「精進湖の湖畔にある公園です。あそこは車に乗ったまま入ることができるので……」

「香田さんたちの他にも、人はいましたか?」

「ええ…。あの公園は星空観測の穴場なんです。あの日は雲がなく、風も吹いていない穏やかな夜だったので、けっこう多くの人がいましたが……」

「その星空観測をしている間に、なにか変わったことは?」


 武雄は静子と目を合わせて、どうだった? と訊いたが、互いに思い当たることはないようだった。


「星を見終えた後は、どうされました?」

「中途半端な時間に高速に乗っても、渋滞にはまるのは目に見えてたので、温泉に入ったり食事をしたり、仮眠を取ったりして、時間を潰しました。それから帰路に就いたんです」

「それまでになにか不自然なことは?」

「ありません。……なかったと思います」

「では、そのまま何事もなく家に着いたんですね?」

「……そうですね。狙い通り渋滞にもつかまらず、無事帰ることが……あっ」


 武雄は会話の途中で急ブレーキを掛けた。家を出てから数十メートル離れたところで忘れ物に気付いたような「あっ」だった。

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